ひたむきに頑張っていれば誰かが必ず見てくれている
「やりたいことをやってきただけなんですよ。これをしなきゃと思うと、居ても立ってもいられないんです」
自らのキャリアをそう語る優しい笑顔が印象的だ。この言葉と表情に坂本 昌彦氏の生き方が凝縮されている。
元々、ジャーナリストになりたかった。文系で、文章を書くのが好き。取材で世界を飛び回ってもみたかった。だが高校2年生のとき、途上国でも活躍していた医師の講演を聞き、その生き方に憧れ、医師を目指すことに決める。理系への方向転換に苦労し、2浪の末、名古屋大学医学部に入学。将来、途上国の医療に携わりたいとの思いも抱いていた大学時代、ポーランドに留学した。そこで坂本氏は大きなピンチを迎える。
「現地で虫垂炎になったんです。手術は全身麻酔でしたが、意識が落ちる前に筋弛緩剤が効いてしまい、呼吸ができない苦しみを味わいました。さらに退院して寮に帰り、翌朝起きると下半身がベトベト。傷口が大きく開いていたんです。それを何とか指でつまんで閉じながら急いで病院に駆け込みました」
だが、この留学で刻まれたのは手術の大きな傷痕だけではない。坂本氏は留学先にバイオリンを持参し、授業後には音大オーケストラにもぐり込み、練習に参加していた。真面目に練習に打ち込む姿を見ていた指揮者に気に入られ、スイスへの演奏旅行メンバーに選抜されたのだ。このとき、坂本氏の胸に人生を支える言葉が刻まれた。
“頑張っていれば、誰かが見ている”
「今、評価されなくとも、ひたむきに頑張っていればいつか誰かが注目し、選び出してくれる。このときの出来事が僕の座右の銘になりました」
大学卒業後は名古屋大学の小児科に入局。関連病院を回りながら小児科専門医を取得した。小児科を選んだ理由は、子どもが多い途上国では必ず小児医療が役立つと思ったため。さらに、学生時代に出会ったある少女の存在も少なからず影響している。
「ポリクリのとき、先天性の病気で入院生活を繰り返していた女の子に出会いました。つらいはずなのにいつも笑顔。僕が落ち込んでいるときには、『そんな顔していないで笑ったら』と、励ましてくれるような子で」
大学卒業後も、大学に顔を出すたびに彼女の姿を見つけ、お互いの近況報告をした。若手時代の辛苦を笑顔で励まし、支えてくれた存在である。
卒後7年目、坂本氏は途上国の医療に携わる第一歩を踏み出そうとする。医局を離れ、熱帯医学を学ぶためにタイへの留学を決断した。だが、留学直前に東日本大震災が起きる。海外に行っている場合ではないと留学を延期し、岩手県の緊急医療チームの活動に参加。その後、福島県立南会津病院に勤務した。
福島の冬は厳しい。ごうごうとうなる吹雪の深夜、1歳くらいの子どもを抱えた母親が救急外来を訪れる。診察すると熱は高くなく意識も正常。顔色も悪くない。家で寝かしておけばやがて回復するものだった。吹雪と暗闇のなかを車で片道1時間半もかけて移動する方が断然リスクは高い。それに急ぐ必要のない受診は救急逼迫(ひっぱく)にもつながる。
またあるときは、女の子が原因不明の下痢で受診した。話を聞くと「米のとぎ汁が放射能に効く」という根拠のない情報を信じ、毎日そればかり飲み続けていたことが分かった。これではダメだ。正確な医療知識をどうにかして伝えていかなければ――。
坂本氏は患者への啓発活動の重要性を実感し、後の【教えて!ドクタープロジェクト】の原型となる保育園への出前講座や啓発パンフレットの作成に取り組み始めた。