PICUが先行するシンシナティ小児病院へ
植田氏は大学を卒業して母校の大学病院で小児科研修をスタートさせたものの、臓器別に細かく区分された診療に、次第に疑問を感じるようになる。各専門分野では高度な医療を提供している医師たちが、重症の救急患者が搬送されてくると途端に自信を失ってしまう姿を目の当たりにした。
「まだ診断がついていない重症患者をどう診るかは、臓器別に専門が分かれてしまうと難しい。救命治療をして、その後の集中治療につなげていくという点においては、日本のシステムはうまく機能していないと感じました」
そのため、植田氏は当時ER型救急やICUなどの救急の仕組みが進んでいた米国で研修を受けようと動き出した。特につてを持たない植田氏は、米国の病院に直接手紙を書いて留学の許可を求めた。そのうちの返事が来た中から、オハイオ州にあるシンシナティ小児病院の集中治療科を選び、1994年からそこで研修を始めた。
当時、日本ではNICUができたばかり。出産後すぐに異常が見つかるか、あるいは分娩異常があればNICUで集中治療をするが、一度退院してしまうと、日本では小児科
領域に移る。救命医療が必要な小児でも、救命医療に慣れていない小児科医が診るか、小児診療に慣れていない成人領域の救急医や集中治療医が診るしかなかった。
米国では、小児専門の救命治療を担うPICUがすでに整備され、患者が広域搬送により集約化され、小児の集中治療専門医が診る独自の仕組みができあがっていた。PICUを持つ病院が広域をカバーし、ドクターヘリで患者を搬送していた。