重粒子線を初めて乳がん治療に 放射線療法の伝道師 唐澤 久美子

東京女子医科大学 放射線腫瘍学講座 教授・講座主任
放射線医学総合研究所 客員研究員
[時代を支える女性医師]

聞き手/ドクターズマガジン編集部 撮影/緒方一貴

放射線に対する無理解が進歩を遅らせていた

今から30年ほど前、国内での放射線療法には高い壁があった。

がん治療といえば外科手術が中心の時代。多くの医師が「放射線療法しかやるべきことがない」という絶望的な患者を放射線科に送っていた。また、原爆の被ばく国だけに、治療に放射線を使うことに抵抗を持つ国民感情も大きかった。

例えば、喉頭がん。初期の喉頭がんは死に至ることはほとんどなく、放射線療法で9割は完治できることが分かっていた。

「1期の喉頭がんの患者さんに、放射線療法を開始すると伝えると、『待ってくれ、放射線療法をするなら遺書を書くから家族を呼んでくれ』と言って、いくら命に関わる治療ではない、と説明しても理解してもらえませんでした」

そう語るのは、放射線療法の中でも最先端分野「粒子線治療」のエキスパート、東京女子医科大学教授の唐澤久美子氏である。乳がん治療に初めて重粒子線治療を導入し、従来の常識を覆した先駆者である。

放射線療法への無理解は現在も根強く残っており、その結果、意外にも日本人の放射線療法の利用率は先進国の中でも最も低い。

粒子線研究において、日本は物理学分野で数々のノーベル賞受賞者を輩出し、基礎研究・治療ともに世界をリードする立場にある。世界に10施設しかない重粒子線施設の半数が日本にある先進的な状況だ。

しかし、国内の放射線治療法で99%を占めるX線治療は、他国から30年も遅れを取っており、陽子線や重粒子線などを使った「粒子線治療」も一部の疾患に限り、この4月にようやく保険適用となったのが現状である。

「放射線治療を認知させたい」 日本の状況を変えるために

唐澤氏は最初から、放射線腫瘍医を目指していたわけではない。「2人に1人ががんに罹患するのなら、どの科へ行こうとがんを無視することはできない」という思いから、血液内科や腫瘍内科に進むことを考えていた。

その後、大学での放射線科実習で、手術でも治せないがんが跡形もなく消えていく放射線療法の威力を目の当たりにし、当時、放射線医学教室主任教授で日本放射線腫瘍学会の初代会長だった田崎瑛生氏の指導で放射線腫瘍科医としてのキャリアを歩み始めた。

大学卒業後、夫と一緒に留学したスイス国立核物理研究所で最先端のパイ中間子や陽子線治療の研究をしたが、うまく実臨床に乗っておらず、治療費ほどの成果も得られなかったことなどから、当時、唐澤氏は粒子線治療の可能性について推進派ではなかった。

帰国後、東京女子医科大学に戻り、X線の治療に戻った。その後、順天堂大学に移り、助教授となった。

臨床経験を積むうちに、唐澤氏にある思いが大きくなってきた。

「日本で放射線治療が認知されていない状況から変えなくてはいけない」

研究はもちろん、治療においても最先端だった放射線医学総合研究所(放医研)に、IAEA(国際原子力機関)への赴任を相談する。

「ぜひお願いします、と理事長から言われたのですが、ポストに空きがなかったのです。IAEAへの赴任が決まるまでの間、放医研で任された仕事が『重粒子線治療』でした」

誰も手掛けていない乳がんに重粒子線治療を施す快挙

X線、陽子線、重粒子線の違いは、その効果と線量集中性にある。X線は体の奥に行くに従って弱まっていくが、陽子線や重粒子線は、がんのあるところに集中的に照射することができる。

治療効果はX線を1とすると、陽子線では1.1倍程度。しかし、その後に研究が進んだ重粒子線では、効果が3倍に跳ね上がることが分かっていた。

ただ、照射するための粒子の加速が技術的に難しく費用も莫大なため、通常の治療法では制御が困難ながんの治療への活用を第一の目的に挙げていた。

代案として赴任した放医研で、唐澤氏は、専門とする乳がんに重粒子線治療を開始したいと考えた。

乳がんは、女性のがんの中で患者数が最も多く、年間9万人が新たに罹患している。 しかも1期〜4期までの5年生存率は92%と極めて高い。つまり、「乳がん治療に高額となる重粒子線治療を適用する理由がない」というのが、それまでの考えだった。

しかし、乳がん治療は既にQOLの改善、とりわけ乳房温存が求められる時代に入っていたのだ。重粒子線治療に対する乳がん患者からの放医研への問い合わせも、他のどのがんよりも多くなっていた。

「重粒子線治療が将来もっと身近なものになったときのために、乳がんが重粒子線治療で治ることを確かめておく必要があります」

それまで、世界の誰もが取り組まなかった乳がん治療であったが、唐澤氏は一定の条件を満たす低リスクの早期の乳がんを重粒子線治療だけで完治させることに成功。 他の療法との併用ではなく放射線単体でも乳がん治療が可能となったのだ。

普及を妨げているものを一つひとつ変えていく

治療効果を十分に発揮するために重要なのが、医師が決定した方法、照射ターゲット、照射方法などの治療計画を検証し、医師と診療放射線技師の間を取り持つ「医学物理士」の存在である。

米国では5000人の医学物理士が活躍しているが、日本ではまだまだ。しかし、近年の診療報酬改定で、定位放射線治療やIMRT(強度変調放射線治療)などの施設基準に、医学物理士の必要性が盛り込まれ、2009年には認定機構が生まれた。

医学物理士は、研究開発においても新たな技術や装置を開発する際に重要な役割を担うことができる人材としても期待が高まっている。

この医学物理士が国家資格として認められていないことも、放射線療法の普及を妨げている要因の一つと考え、唐澤氏は医学物理士を国家資格化する運動を続けている。

さらに、他大学や放医研と共同で超小型粒子線治療装置の開発に着手した。有害事象のリスク少ない陽子線が数十年以内にX線に取って代わると言われているが、X線装置並みの小型で安価な陽子線装置ができれば、X線に取って代わる可能性が高いからだ。

唐澤氏はそれを、自分が現役のうちに実現させたい考えだ。

「患者との信頼関係」が適用疾患と適用率を広げる

放射線療法は、定位放射線治療やIMRTといった治療技術の進歩によって、メスを使わず臓器温存が可能な高齢者にも優しい治療法として注目を集めている。

それでも、国内の全がんに対する放射線療法の適用率は、2010年に3割(約20万人)足らずで、その後は毎年1万人ずつ増加しているが、適用率が6〜7割の欧米に比べるとまだ少ない。

「放射線療法の本質は、患者さんとどれだけ真摯にお話できるかなんです。副作用が強いと思われている誤解を解き、信頼関係を築くことが治療の第一歩です」

患者向けに放射線療法についてのガイド書の出版を企画したのも唐澤氏だ。

『患者さんと家族のための放射線治療Q&A』
『患者さんと家族のための放射線治療Q&A』放射線治療の正しい情報を知ってほしいと唐澤氏 が企画し、日本放射線腫瘍学会の広報委員会が中心になって編集した

RI内用療法との併用未知なる治療に挑み続ける

2016年4月に、小児がんで陽子線治療が、さらに骨軟部がんで重粒子線治療が保険適用されるなど、日本のお家芸である粒子線治療がようやく認知され、放射線療法に追い風が吹き始めている。

がんを単に治療することから、より負担なく完治させる方向に流れが変わってきた。切除することなく、抗がん剤を使うこともなく、がんを治すことができる未来。

陽子線治療とRI(放射性同位元素)内用療法を組み合わせる療法。ピンポイントの陽子線治療と、病巣部に集まるRIの1回の注射、1度の内服で、まるで風邪のようにがんを完治させることができる時代が来るかもしれない。あきらめることなく続けていれば、必ずそんな時代は来ると唐澤氏は信じてやまない。

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2016年12月号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。

P R O F I L E

からさわ・くみこ
1986年 東京女子医科大学医学部 卒業
スイス国立核物理研究所 粒子線治療部門 留学
1989年 東京女子医科大学 放射線医学講座 助手
2000年 東京女子医科大学 放射線医学講座 講師
2002年 順天堂大学 放射線医学講座 講師
2005年 順天堂大学 放射線医学講座 助教授
2006年 順天堂大学大学院医学研究科 先端放射線治療・医学物理学講座 講座責任者併任
2011年 放射線医学総合研究所 重粒子医科学センター病院 治療課第三室長
2015年 東京女子医科大学 放射線腫瘍学講座 教授・講座主任
放射線医学総合研究所 客員研究員

学会・資格
放射線治療専門医、がん治療認定医、乳腺専門医
日本放射線腫瘍学会代議員、日本乳癌学会評議員、医学物理士認定機構理事、日本医学物理学会代議員

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