EMRからESDへ 発展する内視鏡治療
日本初の内視鏡が開発されたのは1950年。小さなカメラ本体と光源を先端に取り付けたものが最初で、病変の有無を診断することを目的に使用されていた。1970年代に入り、内視鏡が治療に使われるようになり、スネアと呼ばれる針金の輪で病変を縛り、その針金に高周波電流を流すことで病変を切除するEMR(内視鏡的粘膜切除術)という術式が登場した。
EMRは早期がんに対応する内視鏡治療として広く浸透したが、スネアで一度に切除できる病変は約2cmの大きさまでに限定されていた。そのため、分割切除になると取り残しから再発の可能性が出てしまい、病理検査で正確な診断がつかないといった問題もあった。
「がんが進行していて内視鏡治療ができないのであれば納得できますが、単に2cm以上の大きさだというだけで開腹手術をしなければならないのはおかしいのではないか、と思っていました」
その後、このEMRの問題点をカバーする方法として登場したのが、電気メスで病変を切除するESDだ。ただ、国内で開発の始まったESDは、確立された技術となるまで数年の歳月を要し、技術を習得する方法も当時は一般化されていなかった。
本間氏が初期研修を終え、新潟県立がんセンター新潟病院に勤務していた当時、この方法を取り入れる医師はほんのわずかだった。習得が難しく、治療途中で外科手術に切り替えなければならない症例も、ゼロではなかった。"腹の中でメスを振り回す危険な治療"と揶揄(やゆ)されながら、本間氏は試行錯誤を繰り返し技術を習得していった。
本間氏の父、本間清和氏(ほんま内科胃腸科医院院長)は、黎明期から内視鏡治療を始めた数少ない医師の一人。院長を務めるクリニックでは、まだ多くの内視鏡検査を行っている。父の影響で内視鏡が身近な存在だったため、医学生の時には自宅医院の内視鏡で操作トレーニングをし、研修医になってからはESDの習得も早かった。
本間氏は、胃だけではなく大腸の治療にもESDを取り入れ、導入直後ではあったが、幸いにも4cmほどの病変切除に成功した。大腸ではポリープを取る手技が主流で、ESDはほとんど使われていない中、学会で発表すると大きな反響があり、シンポジウムで演題採択された。しかしESDの技術習得は、EMRに比べ難度が高いという問題があった。
「自分ができても、他の人はなかなか同じようにはできないことが分かりました。電気メスの扱いが難しいのです。それならば切りたいところだけを切ることができる器具を作れないか、と考えるようになりました」
ヒントになったのが、腹腔鏡下手術だった。ESDで使うような電気メスではなくハサミ型のナイフが使われているのを見て、「これをESDに応用すれば誰でもできるようになる」と確信したという。