精神科と救命救急で学び働き方を見直す旅に出る
現在の姿からは想像が付かないが、実は大学時代は劣等生だった。付いたあだ名は「再試の女王」。ほとんどの講義を寝て過ごし、「こんなにも勉強ができない学生は初めて」と教授に言われたこともあったという。
しかしその一方で、なりたい医師のビジョンは明確だった。アンドルー・ワイル著『癒す心、治る力』という本に影響を受け、病気に対して薬を処方するだけでなく、「病気の原因を突き止め、心と身体の両面から患者が持つ自己治癒力にアプローチする医師になりたい」と考えていた。
内科と精神科で悩んだ末、じっくり患者と向き合える精神科を選ぶも、すぐにその決意を揺るがす出来事が起こる。
「精神科の初期研修で、緊張で手を震わせながら注射を打つ上級医の姿を見てしまったんです」
精神科をベースにしていても内科や全身管理の学びは欠かせない。そう考えた穂積氏は、国立病院機構東京医療センターの総合診療科・救命センターの門をたたいた。
しかし、現場は想像以上のハードワーク。眠れない・帰れない・いつ呼び出されるか分からない――の三重苦から、「私はもうどうなってもいいんです」と看護師長に弱音を吐く夜もあったという。
再び精神科に軸足を戻したのが2年後。東京都立松沢病院で後期研修を行う。病院に隣接する東京都立中部総合精神保健福祉センターの要請で、患者の訪問診療にも立ち会ったが、院外で生活する患者の実態は衝撃的だった。
「認知症で片付けができず、食べかけの食事や物で辺り一面散らかり、ゴミ屋敷のようなところも多かったですね。こんな世界もあったのかと驚きました」
一時は、「自分にできることが何かないものか」と、日本老年精神医学会の専門医となることも考えた。だが、高齢者に特化してはこれまでのキャリアが活かせない。
迷いを断ち切るように、埼玉県精神科救急医療の拠点病院である久喜すずのき病院のスーパー救急病棟に入職したが、既に穂積氏の心と身体は疲れ切っていた。
「ある日、自殺未遂をして警察やヘリを出動させてしまった患者さんの話を聞きました。救命はできたものの、これから向けられるかもしれない周囲の目や、待ち受けている人生の過酷さに患者さんが耐えられるのだろうか。そう思うと、私にはそれをとても抱えきれないような気がして…。1日60人もの患者さんを診る中で、一人ひとりにどう向き合えばいいのか途方に暮れてしまいました」
そこから穂積氏がとった行動は、ある意味「働くことからの逃げ」だったのかもしれない。一度リセットをするために、米国の大学へラテン語を学びに行ったり、地中海クルーズに出かけたりと、1年間かけてこれまでできなかったことを思い切りしてみることにしたのである。
意図せずそれは、働くことの価値観をリセットする旅となる。南フランスのニース駅で予約した電車に乗り遅れて手続きをしようとすると、ヨーロッパの鉄道の乗り放題チケットを持っているのに、「手続きが面倒だから」という理由で職員に追い払われてしまった。めげるものかと別のカウンターへ行くと、今度は男性職員から、「コーヒーを一緒に飲んでくれたら交換してあげる」と言われて拍子抜けしてしまう。
「一事が万事そんな感じで(笑)。つらい労働を一生続けていかなければならないと思っていた私にとっては、目からウロコ。こんな働き方でもいいのかと驚いた半面、ホッとしましたね」