「太る」を理由に治療拒否 ピルへの偏見を払拭
手探りで治療が始められた。当時は、治療指針はおろか、日本人女性アスリートの実態すら明らかになっていなかった。
そんな中で能瀬氏が最初に取り掛かったのは、選手のデータを収集、分析し競技特性によるそれぞれの問題をひもといていくことだった。
「フィギュアスケートなどの審美系や、陸上中長距離の持久系の選手には『無月経』が多く、球技系やパワー系、アーチェリーなどの技術系の選手は無月経よりも月経困難症や月経前症候群(PMS)などの月経随伴症状がコンディションやパフォーマンスに影響していると感じている選手が多かった。選手の抱えている問題は競技によりさまざまでした」
体重の壁にもぶつかった。選手に月経対策で低用量ピルを処方しようとすると、体重増加を懸念して治療拒否されるのだ。「未来の健康」より「目先の記録」が重要視される。特に、無月経の多い審美系、持久系の選手にとって体重増加は死活問題なのだ。
「『ピルが太らないことをデータで示す』必要がありました。まずは、低用量ピルの服用前後で、体組成や体脂肪率、体重がどう変わるかを調べ、思考錯誤しながら選手ごとに低用量ピルを使い分け希望体重に影響が出ない薬剤の選択を追究しました。また、それに加え、ピルへの偏見を取り除くために、診療外で選手一人ひとりに直接説明をしました」
ピルの処方以外にも「エネルギーバランスの改善」について選手は難色を示した。利用可能エネルギー不足による無月経には、薬ではなく食べる量や内容を調整して治療することが国際的な基準となっている。だが、最初はどうやってエネルギー摂取量や運動によるエネルギー消費量を調節するのか、どうすれば選手が治療を受けるようになるのか、皆目見当が付かなかったという。
状況が一転したのは、婦人科外来でスポーツ栄養士とタッグを組み、選手のエネルギー摂取量と運動によるエネルギー消費量を調査し始めてからだ。アスリートに不足しがちな栄養素が炭水化物であること、「無月経」「骨粗鬆症」「利用可能エネルギー不足」の三主徴のうち1つでも当てはまると、疲労骨折のリスクが格段に高まるという事実が明らかになったのだ。
「無月経で疲労骨折を繰り返した選手は成績を伸ばすことができません。客観的なデータをもとに、『パフォーマンスを落としたくなければ、エネルギーバランスを見直しましょう』と、スポーツ生命がかかっている事実を伝えて治療につなげてきました」
こうした地道な努力と、昨今の女性アスリートの活躍、そして東京オリンピック・パラリンピックの開催が追い風となって、ここ数年は、選手自らが受診に来ることも増えてきた。また、最近では、無月経の選手を採用しない実業団も出てくるなど、女性トップアスリートを取り巻く環境は数年前から一変した。