乳児死亡率最下位青森県の医療改革と子供の発達を支える成育科の創設 網塚 貴介

青森県立中央病院
総合周産期母子医療センター 成育科部長
[Challenger]

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/安藤梢 撮影/皆木優子

乳児死亡率が高かった青森県で、新生児医療の改善に取り組んだ網塚貴介氏。NICUを立ち上げ、超低出生体重児の集約化を目指した総合周産期母子医療センターへと展開させるなど、県内の新生児医療の中核となる組織作りに尽力した。
「捨て身」ともいえる徹底的な人材育成で医療水準を向上させた網塚氏が、次のステップとして力を注ぐのが「成育科」。退院後の患者とその家族を支援する新たな地域ネットワーク作りに奔走する。

1999年、青森県の乳児死亡率は全国最下位を記録した。新生児科医の網塚貴介氏が青森県立中央病院に赴任したのはちょうどその翌年、不名誉な統計結果が公表された年だった。当時、青森県には総合周産期母子医療センターがなく、県立中央病院にはわずか8床の未熟児室があるだけだった。北海道立小児総合保健センター(現・道立子ども総合医療・療育センター)で新生児医療に携わっていた網塚氏は津軽海峡を隔てた青森の地で新生児医療の土台作りを任されることになる。

NICUの開設準備を進めると同時に取り組んだのが、現状把握のための統計データ解析だった。

「青森県の乳児死亡率は悪いのだろうと思っていましたが、実際のデータに驚きました。乳児死亡率の5年間の平均値を計算してみると統計を取り始めた戦前から一貫してワースト10以内に位置していたのです。青森のように人口の少ない県では年間死亡率の上下幅が大きく、単年の評価では見誤ってしまいます。青森県は歴史的に見ても全国で最も乳児死亡率が高い県であり、ワーストの記録は一時的なものではないことが分かりました」

ハイリスク症例を引き受け新生児治療を集約化

なぜそれほど青森県の新生児医療は低迷していたのか。その理由を網塚氏は、症例の分散が原因と分析する。

「青森県には青森市、八戸市、弘前市など6医療圏あり、当時、超低出生体重児は各圏域で治療されていました。症例数も各施設とも年間わずか5~6例程度。しかも、新生児医療は小児科との兼務がほとんどで、経験値の蓄積もなく新生児医療の進歩に乗り遅れていたのだと思います。この頃、県内の超低出生体重児の死亡率は50%を超えていました。いくら当時でも全国平均が20%程度だったことを考えると"あり得ない"数字でした。新生児医療の水準を上げるには症例の集約が不可欠と考えました」

そこで超低出生体重児を集約させる施設として使命を負ったのが、青森県立中央病院だった。網塚氏が赴任してから1年後の2001年春、新生児科の専任医師を配置した6床のNICUがスタート。2004年には総合周産期母子医療センターが開設され、NICUも9床に(現在は15床)。県内で年間30例ほどの超低出生体重児のほぼ全てを同院で引き受けた結果、救命率は一気に改善した。

新生児科で深刻な医師不足 医師4人のミニマム体制

総合周産期母子医療センターとして順調にその機能を果たす中で、新生児科が大きな壁に突き当たったのは2007年。2004年に始まった臨床研修医制度による医師不足に加えて、これまで医師の派遣元であった札幌医科大学から、派遣が途絶える事態が発生した。当時、道内でも医師不足が深刻化しており、「今年も札幌医科大学から青森へ小児科医7人派遣」と、北海道新聞に批判的な記事が掲載され、これを機に青森への医師派遣の風当たりが厳しくなったという。

「当時、県内の超低出生体重児の集約化はすでに完成していました。年々患者さんは増えているのに、医師が足りない。常時24時間体制が求められるNICUを医師4人で回さなければならず、当直は中3日が続きました。一時は私以外の医師が全員NICU経験に乏しかったこともあります」

さらに、当時は当直回数が多いだけではなく、重症患者が入院すれば当直表も全て組み直しだったという。

「先も見えず、一番つらい時期だった」と網塚氏は振り返る。

人材不足に加えて、もう一つ課題となっていたのが医療の質の問題だ。患者を集約することで救命率は格段に向上したが、合併症で後遺症を残す患者の数は依然として多かった。そこで、医療の質改善のため取り組んだのが徹底的な人材育成である。若い医師たちを次々と神奈川県立こども医療センターに国内留学させ、日本トップクラスの環境で学ばせることにした。

「これまで4人でやっていたところに医師が1人増えてくれたら当然楽になります。でも、その1人分は研修に出すんです。人材育成は貯金と一緒で、『いつか余裕ができた時に』と思っていたら何十年たっても絶対にできません。でも、一度優先順位を入れ替えて人材育成の最初の一歩を踏み出してしまえば、意外にあっという間に育ってくれるものです」

"捨て身の人材育成"だったと網塚氏はいう。どんなに人手が足りなくても研修に出し続けた。でも、それは同時に多くの出会いがあったからこそ、なし得たことでもある。当時、何人かの若い医師たちが仲間に加わってくれた。その出会いには今でも感謝しきれないという。そして、国内研修を終えた医師が戻ってくるようになると、医療水準は格段に上がっていった。

人材育成の最終目標は「自分を要らなくすること」

2009年に最初に国内留学に行った医師が戻ってきたのが2011年。この時からNICUの治療方針はその医師に全面的に任せ、国内留学で習得した高い水準を実践できるチームを整えた。

「NICUでの医療は、ちょうど『4本脚の椅子』みたいなものだと思います。古くなった足を1本だけ取り換えてもガタガタしてしまう。これまで私がやってきたやり方に、新たなことをただ付け加えてもきっとうまくいかない。換えるなら4本全部換えないと。だから、全面的な方針転換を図ることにしたのです」

かつて一貫して高かった青森県の乳児死亡率の5年平均値は、2010~2014年の集計では初めて全国平均よりも低くなり、周産期死亡率は上位10位以内に入るという大躍進を遂げた。

国内留学に行った医師全員が戻るのを見届け、2016年に網塚氏は新生児科を離れる決断をした。

「人を育てることの最終目標は"自分を要らなくすること"だと思います。自分の分身ともいえるNICUを離れる寂しさはもちろんありましたが、でも組織はそうやって進化していくものと信じています」

新生児医療のその先へ 成育段階を支える診療科

新生児医療が軌道に乗ったタイミングで、網塚氏が取り組んだのが「成育科」の立ち上げである。2016年に総合周産期母子医療センター内に新たな診療科として成育科を開設。救命はできたものの後遺症を抱えた患者たちは、成育過程でさまざまな問題に直面する。これまでも新生児科の医師が退院後の子供たちを個別にフォローをすることはあったが、それを専門とする部門はなかった。

「新生児医療が充実した今だからこそ、治療を終えた子供たちの発達や生活を支えていく必要性と責任を感じました」

これは時代の流れとも合致している。成育科を立ち上げた2016年には児童福祉法の改正により医療的ケア児への支援が盛り込まれ、2018年12月には、妊娠期から継続した医療と福祉の提供を目指した成育基本法が成立した。

成育科としての活動で大きな役割を占めるのが、NICU退院児のサポートだ。特に超低出生体重児の発達フォローでは、単に発達を評価するだけではなく、必要に応じて地域支援に結びつけ、就学に向けたアドバイスをしていく。脳の可塑性が高い未就学期にリハビリテーションの介入ができるよう、的確なタイミングで指導も行っている。

「なるべく早い段階で適切な支援を受けられるように交通整理をしています。成育科でまず目指すところは就学です。例えば、脳性麻痺で車いす生活の子供ならば小学校のバリアフリー化が必要です。そのためにはいつまでにどこに相談に行けばいいのかなど、医療と福祉・教育をつなぐ橋渡し役も担っています」

まだスタートしたばかりの診療科だが、網塚氏が目指すのは総合周産期母子医療センターに成育科の設置が必須になること。

「近年、医療的ケア児が増えている中で、必ず枕ことばのように『医療の進歩により、これまで助からなかった命が助かるようになった』と言われます。でも、新生児医療は政策医療の一環として発展してきました。それであれば、医療的ケア児の支援や、小さく生まれた超低出生体重児のお子さんたちへの支援にもまた政策医療としての責任があるはずです。いかにして、彼らを支援し、かつ彼らへの支援の充実を図るか、その道を探ることこそが成育科に課せられた使命であると考えています。そして、新生児医療の当事者だからこそ、できる支援・しなければならない支援があります」

医療的ケア児支援と地域のネットワーク作り

医療的ケア児支援も成育科の大きな仕事の一つだ。医療的ケア児に関する調査を重ねていく中で青森県の現状も分かってきた。「青森では都市部と比べて医療的ケア児の総数が少なく、かつ広範囲に分布しています。新生児医療では集約化を進めましたが、小児在宅医療支援ではそれとは正反対のアプローチが必要です」

網塚氏は現在、2018年に設置された「青森県医療的ケア児支援体制検討部会」のメンバーとして、行政と共に支援体制の構築に取り組んでいる。医療的ケア児は就学以前の集団生活の場がないことや、母親の就労が困難なこと、障害の程度に幅があるなど多くの課題がある。

「医療過疎地でも等しく支援が受けられるために一番大事なのは"支援者への支援"だと思っています。例えば、高齢者の胃瘻の管理はできるけれど、気管切開をしている医療的ケア児への対応は未経験で怖いと感じている地方の訪問看護師さんにどのような支援ができるか?ということです。小児在宅ケアの支援を地域で広げていくには、必要に応じて専門職がチームを組んで現地・在宅で研修し、支援するなど、新たな仕組み作りをする必要があります」

すでに県内のいくつかの圏域では連携体制を作る動きが始まっている。

「私が新生児科の医師としてこれまで関わってきた子供たちの中には、県の支援体制が整う頃にはもう大人になっている子もいます。今すぐよくなる問題ではなく、もどかしさはありますが、これから生まれてくる子供たちのためにも、とにかく一歩一歩前進するしかない。一歩でも半歩でも、動き出せば必ず変わります。そのためには、成育科の方も仲間を増やしていって、後継者を育成することが今後の課題ですね」

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2019年4月号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。

P R O F I L E

あみづか・たかすけ
1988年 札幌医科大学医学部 卒業
1993年 埼玉医科大学総合医療センター
1994年 北海道立小児総合保健センター
2000年 青森県立中央病院
2004年 青森県立中央病院 総合周産期母子医療センター 新生児科部長
2016年 青森県立中央病院 総合周産期母子医療センター 成育科部長

資格
日本小児科学会専門医、災害時小児周産期リエゾン、新生児蘇生法専門コースインストラクター