「治せない不整脈をなくしたい」心室頻拍のアブレーション治療で患者を救う 副島 京子

杏林大学医学部付属病院
循環器内科 教授
[Challenger]

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/安藤梢 撮影/皆木優子

不整脈の中でも突然死の危険性がある心室頻拍。突発性の心室細動によって血圧が低下し、脳に血流が行かなくなることで引き起こされる疾患だ。
不整脈治療が進む米国で8年間にわたって研鑽を積んだ副島京子氏は、心室頻拍のカテーテルアブレーションを数多く手がけ、ブラジルで新たに開発された「心外膜アブレーション」をいち早く習得。日本で初めて成功させただけでなく、デバイスの研究開発にも携わるなど、不整脈治療の分野を牽引する存在として注目を集めている。

突然死の危険がある心室頻拍 ICD作動を抑える治療を

不整脈はさまざまな原因により心臓の脈が乱れることで引き起こされるが、特に心疾患を抱える患者における心室からの不整脈は、致死的になる可能性がある。

杏林大学医学部付属病院の不整脈センターを率いる副島京子氏は、不整脈の中でも特に心室頻拍のアブレーション治療に力を入れるスペシャリストである。副島氏がアブレーションにのめり込むようになったのは、ICD(植え込み型徐細動器)を入れた後の患者の状況を知ったことによる。心臓に植え込まれたICDは、心室頻拍に反応して電気ショックを与えることで心臓の動きを正常に戻すため、安全装置としては欠かせない。しかし、カミナリが身体に落ちる衝撃とも例えられる電気ショックがいかに患者に苦痛を与えるか、それを示す一枚の写真がある。患者の体内から取り出されたICDの真ん中に大きな穴が開いているもので、米国で診療していた時に患者が見せてくれたという。

「心臓移植を受けた患者さんが、取り出したICDをライフルで撃ち抜いたものでした。ICDの電気ショックを体験した患者さんは、痛みや精神的苦痛で本当につらい思いをします。命が助かるから『作動してよかった』では決してないと感じました」

"ICDが作動する前に治療を"という思いで、若手医師を指導する際には必ずその写真を見せている。

「危険な不整脈と言われる心室頻拍は、治療しなければ命に関わる疾患。だからこそ治療を終えた患者さんからは『人生が変わった』と言ってもらえる。難しい分、やりがいがあります」

手技の研鑽を目指して不整脈治療の最先端米国へ

研修医の時に見たアブレーションに衝撃を受けて、不整脈治療の道に足を踏み入れたという副島氏。

「激しい動悸で何度も救急車で運ばれて来ていた患者さんにアブレーションをしたところ、目の前で劇的に症状が改善して。それまで異常だった心電図が正常に戻ったのを見て、"これは面白い"と思いました」

慶應義塾大学病院で循環器内科の医師として研鑽を積み、米国留学を決めたのは1998年。症例数が多く、不整脈治療が進んだハーバード大学を選び、臨床医として勤務するために外国人用の医師免許(ECFMG certificate)も取得した。しかしいざ大学のあるボストンに行ってみると、思わぬトラブルに見舞われる。ちょうどその年の1月1日から州法が変わり、臨床に米国人と同じ医師免許が必要になったと知ったのは、1月4日に渡米した後だった。

「どうしよう……、と目の前が真っ暗になりました。臨床がやりたくて行ったのに、いきなりつまずいてしまったな、という気持ちでした」

アメリカ人と同じ試験を受けて医師免許を取得するためには、語学力はもちろんだが基礎的な知識を勉強し直さなければならず、「本当に大変だった」と当時を振り返る。試験勉強に帰宅後の時間を取られる毎日を"無駄な時間"のように感じていたという副島氏だったが、努力の甲斐あって1年で試験に合格。翌年から臨床を始めることができた。

ブラジルで新治療法を習得 日本で初めて成功させる

実際に臨床の現場に立ってみると、次第に"無駄"だと思っていた1年間で得られたものが見えてきた。

「臨床ができなかった1年間にResearch(研究)を進めていたことで、他の先生の手技を見ながらデータを解析し、一歩引いた視点からじっくり考えることができました。その考えをもとに治療に臨めたことは、大きなメリットだったと思います」

ブリガム病院(Brigham and Women's Hospital)で年間500例以上のアブレーション治療に携わるなど、着実に技術を身に付けていた副島氏は、高い臨床能力だけでなく研究分野でも評価され、2003年にはハーバード大学医学部循環器科の助教授に就任。日本人として"壁"を感じることはなかったのだろうか。

「海外から来ている医師も多く、Diversity(多様性)のある環境だったので、日本人だから、女性だからと壁を感じたことはなかったですね。臨床に集中できる環境で新しい技術をどんどん取り入れて、それをすぐに臨床に反映させることができる。治療の効果が見えることで、モチベーションも上がりました」

当時、不整脈治療は著しく進化していた。副島氏が技術を学びに行った、心外膜アブレーションもその一つ。心外膜アブレーションはブラジルのSosa博士が開発した治療法で、内側からのアプローチだけだったカテーテルアブレーションにおいて、心臓の外側から焼灼をするという画期的なものである。心臓の筋肉は1cmほどあるため、それまで外側に不整脈のもとがあると内側からでは焼灼ができなかった。

「実はこの治療法が生まれたのは、Sosa先生と同僚の麻酔科医との会話からでした。心臓の外側には心嚢があって、その狭いスペースにカテーテルを入れるのは難しいのですが、その話をたまたま聞いていた麻酔科医が硬膜外麻酔用の針を教えたのがきっかけです。同じ循環器内科の医師だったら『危ない』と考えてしまうところ、違う分野の人と協力することで出てきた発想です」

Sosa博士の下で学んだ副島氏は1週間で手技を習得すると、ボストンに戻って手技を広めることに尽力。2004年には患者からの強い希望を受けて、日本で初めての心外膜アブレーションを成功させた。

「日本では新しいものを取り入れることに必ずしも前向きではありません。だからこそ一例目は成功させなければならない。新たな治療法が後に続いていくためにも、その責任は大きいですよね」

不整脈治療の前進のためデバイス開発分野でも発信を

2008年に再び米国へ渡った副島氏は、マイアミ大学で不整脈センターの立ち上げを任される。一緒に赴任した4人の医師は一人また一人と辞めていき、最後に副島氏が残った。

「患者さんとの会話がスペイン語だったので、診察では英語が通じない。それにボストンではすでに流れができあがっていたカテーテル治療も、マイアミでは一からしくみ作りをしなければなりませんでした」

苦労の多いマイアミ時代だったが、副島氏の表情は明るい。

「その時は苦しい思いをしても、後から振り返ると必ず意味がある。それまで点と点に見えていたものが、一本の線で結ばれているのが分かります。今考えるとマイアミでの経験も、症例数が多く豊富な経験が積めたことや違う大学から来た先生たちとの交流など、得るものは大きかった」

杏林大学で不整脈センターを立ち上げる際には、何もないところからしくみ作りをした経験が役に立った。開設当初は年間1、2例だったアブレーションの症例数は、2018年には360例にまで増加。さらに2014年3月には、欧米の医療機関と協力してリードレスペースメーカの治験を実施した。日本の施設が治験に選ばれるのは初めてで、これまで副島氏がペースメーカの開発に関わっていた実績を評価されたことによる。このペースメーカーはリードからの感染を防げるうえ、胸部の植え込みがないため、胸部に傷がつかない。

「機器の開発によって不整脈治療は前進します。ICDの形状も初めは角張っていましたが、痩せ型の日本人の体型に合わせて面取りしてほしいと米国で提案したところ、丸みを持たせたデザインに変更されました。こういった日本人の発想を世界に向けて発信していきたい」

外の世界に興味を持つことが新たな発想につながる

心室頻拍ではICDを入れて終わりではなく、そこから先の"作動させないための治療"が大切だと副島氏は実感している。ICDの電気ショックを経験した患者がPTSDを発症するケースも少なくない。ある女性患者は子供の送り迎えや入浴で心室頻拍を起こし、たびたび作動するうちに外出も入浴もできなくなった。PTSDで一時は日常生活にも支障を来したため、紹介された。アブレーション治療によって8年たった現在まで一度もICDは作動していないという。その後の精神科のカウンセリングで、患者は普通の日常生活を送れるまでに回復した。

「もちろん安全装置としてICDは必要ですが、アブレーションによって作動しないようにすることはできる。治療方法に迷った時は、自分がもし患者さんの立場だったら、と考えて決めています」

心外膜アブレーションによって今までできなかった不整脈の治療が可能になったが、外側の脂肪が厚いケースや深い位置にあるものに関しては、まだ効果的な治療法がないのが現状だ。新たな治療法の開発に向けて、副島氏は海外と共同で研究を進めている。また、術中の医師の被曝量を抑えるために角度や時間、設定など、後に続く若い医師たちが安全に治療できるようにと工夫を重ねている。

「若い医師たちにはどんどん外の世界に目を向けてほしい。もちろん日本でも同じ経験はできるかもしれませんが、違う文化に触れてDiversityを知ることが大切。自分の専門以外のことにも興味を持つことが、新しい発想につながります」

高校時代、留学を迷っていた副島氏の背中を押してくれた父の言葉がある。

―「岸が見えなくなることを受け入れる勇気がなければ、海を渡ることは決してできない」

その言葉を信じて治らない病気といわれていた心室頻拍の治療と研究に突き進んできた彼女の後ろには、点と点が結びついた確かな道ができている。

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2019年6月号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。

P R O F I L E

そえじま・きょうこ
1989年 慶應義塾大学医学部 卒業
1989年 慶應義塾大学医学部 研修医(内科学)
1991年 都立広尾病院内科 専修医
1993年 慶應義塾大学医学部 助手(内科学)
1996年 慶応義塾大学病院救急部 助手
1998年 米国Harvard大学医学部 Brigham and Women's Hospital 循環器科電気生理学 fellowship
2001年 Harvard 大学医学部循環器科 講師
2003年 Harvard 大学医学部循環器科 助教授
2004年 慶應義塾大学病院心臓病先進治療学講座 講師
2008年 米国Miami大学循環器科 准教授
2009年 聖マリアンナ医科大学循環器科 講師、川崎市立多摩病院
2011年 杏林大学医学部付属病院循環器内科 准教授
2015年 同 教授