Vol.013 維持透析療法導入・施行における医療側と患者側の役割分担ないし責任範囲

協力:「医療問題弁護団」宮城 朗弁護士

* 判例の選択は、医師側もしくは患者側の立場を意図したものではなく、中立の立場をとらせていただきます。

はじめに

周知のとおり、慢性腎不全患者に対する維持透析療法の施行は、透析中と日常生活の双方において患者に多大な負担を強いるものであり、医療側の指示のもと、かなりの忍耐心・克己心と自己管理を要することは明らかである。他方で、当然ながらしかるべき時期にしかるべき方法で維持透析療法が導入され、かつそれが適切に継続されることなくしては、患者の生命維持は図れない。
しかし、患者側にしてみれば、透析導入に際してはできるだけそのような継続的加重負担を負いたくないので、「透析導入を避けたい」、あるいは「せめて遅らせたい」との心理が働くし、維持透析が導入された後も、その精神的・身体的負担に耐えかねて日常生活のうえでの医療側の指導を十分に守らないとの事態も起こり得る。
また、医師側にとっても、患者の容態あるいはその他の諸条件によっては、透析導入を是とすべきかどうかの迷いを生ずることもあるであろうし、患者側が完全に担当医の指示を遵守したとしても、患者の容態は短期間で容易に変動するので、1度立てた診療方針を患者の容態を診ながら変更していく必要に迫られ、あるいは多様な副作用に患者が苦しめられ、手を尽くしてもそれが容易に寛解せず、場合によってはさらに悪化して不幸な転帰を辿ることも決して少なくない。そのような場合の死因の第1位を占めているのは、溢水または尿毒症による心不全・肺水腫である。
その意味で、他の診療科における患者は基本的に純然たる診療の客体との要素が強いとの傾向があるのに比して(それとて、程度の問題ではあるが)、臨床のうえでこれほど医療側と患者側の強度の信頼関係にもとづく継続的協力関係の構築と保持が要請される分野も滅多にないように思われる。その原因は、前述のとおりの維持透析療法の特質から、医療側と患者側の双方が絶えざる困難に晒されつづける、という点にある。今日の臨床現場における透析技術の進展には目覚しいものがあると認識しているが、それでもなお、このような基本的構図に変化はない。

そこで、慢性腎不全に対する維持透析療法の臨床現場では、このような医療側と患者側の相互理解の不十分さが、トラブルと医療事故多発のひとつの要因となっていることは疑いを容れない。
本稿では、判例にあらわれたこのような医療事故類型の中から、特に「透析導入」という局面にスポットを当てて、2件の判例を紹介し、それらを通じて医療側の裁量範囲の問題と、患者に対する説明義務の範囲という視点で、双方の精神的な信頼関係を基礎においた医療側と患者側の役割分担ないし責任範囲というものを検討してみたい。

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事件1 内容

事件1. 精神疾患のある腎不全患者と透析導入時の医師の裁量範囲

-宮崎地方裁判所平成8年3月18日第1審判決- 判例タイムズNo.927、1997.3.15
-福岡高等裁判所宮崎支部平成9年9月19日判決- 判例タイムズNo.974、1998.8.15

本件は、地域の中核病院である県立病院の担当医が透析導入を必要とする腎不全患者に精神疾患(重度の精神分裂病との診断)が並存することを理由に透析療法の適応がないとして透析導入を断り、その結果、まもなく患者が慢性腎不全に起因する心不全で死亡した事案である。
患者は、本件事故当時42歳の女性Xで、中卒後就職していたが20代で精神症状が発症し親元にひきとられていた。その後も実家にひきこもって精神的に不安定な状態がつづいていた。平成元年頃、Xは糖尿病と尿路感染症に罹患し、他のA病院に入院してインスリン持続投与を受けて症状は改善され、平成2年7月末頃には、糖尿病対策として指示された食餌制限を守りインスリン注射をつづければ、通院治療で足りるほどになった。しかし、全身状態が良くなるにつれ、Xは医師らの指示を守らないようになり、思うままに飲食するなど、医師らから理解力と自己管理能力の不足を指摘されていた。医師らは家族と相談したが、患者自身には自己管理が期待できず、また諸事情から家族にも常時患者の面倒をみる余裕がなく、Xはそのため糖尿病と精神疾患両方の対処が可能な別のB病院に転院して治療を継続した。そして平成3年1月頃(以下の日付は平成3年を省略)には、身体的にも精神的にも、退院可能で日常的な介助も不要なほど容態は良くなったが、本人の希望で入院が継続された。5月には水腎症を発症したが、バルーンカテーテル留置による尿排出を要するとの診断で、また別の泌尿器科C病院に転院して治療を受け、水腎症は消失したものの腎機能が低下してくるとともに、精神症状も悪化してきた。そこで、2ヵ月ほどの入院の後、またB病院に戻された。担当医は血液検査の結果等から7月頃には顕著な腎機能低下が認められ、血液透析を視野に入れた治療と精神科的保護環境の双方が必要であるとの考えから、7月11日に県立病院である被告病院Cに連絡して受け入れを求めた。
翌日12日に来院した患者らに対して、被告病院では血圧、脈拍、聴打診、眼瞼結膜等の表面的な診断をしたのみで、透析は容易なものではないからB病院に戻るよう指示した。そして、B病院への連絡票には、「血液透析療法の適応につきましては、当科ではその最低条件として、(1)本人が透析の必要性を了解し、自己管理を含めスタッフの指導を受け入れること、(2)外来通院透析の確保、としています。この二点の確認ができなければ透析できません」として、家族がどうしてもというのなら再検討するので連絡するよう回答が記載されていた。B病院では、とりあえず同医院で可能な限りのバルーンカテーテルによる導尿、利尿剤投与等の措置を採る一方で、透析可能な病院を当たったがにわかに見つからず、その後の数日間に患者の意識は清明であったものの全身倦怠感、嘔気嘔吐、口唇、鼻孔からの出血、便の出血傾向等の症状が認められ、BUNが122、血清クレアチニン値が11.7、血清ナトリウム値122、血清カリウム値5.8という検査結果であった。7月16日には、顔面に著明な浮腫で満月様、いつ尿毒症症状が発症してもおかしくない容態となった。
そこで、B病院としては、家族が付き添いをすれば被告病院でも受け入れるのではないか、との考えから家族と連絡をとり、患者の受け入れを被告病院に再度要請した。そして、患者Xは7月17日に被告病院に来院して家族とともに受診し、担当医に血液透析導入を依頼。入院して検査を受けたところ、BUN109、血清クレアチニン値12.1、血清ナトリウム値112、血清カリウム値5.2、翌日18日には、BUN127.5、血清クレアチニン値11.6、血清ナトリウム値110、血清カリウム値5.3であった。
同日、被告病院担当医は、「本人が透析に対する理解力がないので当院の透析適応にあてはまらない」として、血液透析を導入しないことを決めた。
これに対して、B病院側は再度血液透析導入を要請したが、被告病院はこれを拒否したため、B病院がまた患者を受け入れた。7月19日の午後0時29分に患者はB病院に到着したが、午後1時半には、呼名反応、痛覚反応、瞳孔反射のいずれもマイナスとなっており、その状態のまま、患者は翌日20日午前6時45分に死亡した。死因は、慢性腎不全による腎機能喪失を主因とする心不全であった。
そこで患者の遺族らが、(a)最初の来院時の7月12日の時点で患者を入院させて血液透析を導入すべきであった、(b)7月17日の時点ではただちに透析を導入すべきであったのにこれを怠った、という2点の注意義務違反を主張して損害賠償請求訴訟を提起した。
被告病院側は、透析療法施行のうえでは、患者側の自己管理能力と医療側への協力が絶対的に必要であったところ、受診時の患者の対応ぶりからその適応が認められないと判断したのであり、過失はないと主張した。

事件1 判決

<第1審判決>

被告病院側を有責として賠償義務を認める

判決の理由として、上記(a)の7月12日の最初の来院時の対応については、その時点における患者の容態はただちに透析導入を要するまでには至っていなかったし、家族がどうしてもと言うなら再検討するとの留保付きで帰院させたのであるから、この措置は医師の裁量範囲内の行為であって違法とは言えない(ただし、その地方の中核的な地位を占める県立病院の対応としては、法的にはともかく社会的には非難に値するとしている)。
しかし、上記(b)の7月17日時点の透析導入拒否については、検査結果が透析導入をしなければ尿毒症を発症する蓋然性が高いと言えるほどに至っており、その場合、長くとも数週間のうちには死に至ること、家族らは患者に付き添う態勢を整え、B病院の主治医とともに血液透析導入を要請しており、患者らの意思は明確であること、患者には精神疾患があったが、看護師との意思疎通には支障がなく、その事実はB病院に問い合わせれば容易に確認可能であったことなどから、この時点における透析導入拒否は医師としての裁量範囲を逸脱した違法な行為である、と評価した。


<控訴審判決>


被告病院側を有責として賠償義務を認める

控訴審でも、当事者双方の主張内容はほぼ同様であり、控訴審裁判所の判断枠組みも基本的には第1審と細部をのぞき変わっていない。
すなわち、当時の被告病院には新たな透析患者を受け入れる余裕があり、患者には精神疾患があったが、さほど重度のものではなく精神科治療を併行して行えば、透析導入自体が困難となるようなものではなかったと認定し、患者には長期透析導入の適応があったので、17日の導入拒否は当時の患者の容態が末期の腎不全であり、救命のためには透析導入しかあり得ないことを、被告病院担当医も明言していたのであるから、透析導入を拒絶することは裁量範囲を逸脱するというものであった。

事件1 両判決の評価

本件の有・無責の判断自体については、7月12日の最初の来院時は裁量範囲内で無責、2回目の7月17日の来院時には裁量範囲を超えているので有責、という結論を現時点で客観的に振り返ってみた場合、法的観点からみても臨床現場という医療側の視点に立ってみてもほぼ異論なく、常識的にみて当たり前の結論だと思われる。
それではこの12日の受診時と17日の受診時というわずか5日間の違いで結論を分かつ要素はなんであろうか。
ひとつには、判決理由中に指摘されているとおり、12日の時点では検査数値から診て患者の容態がただちに生命の危険を生ずるに至っていなかったのに対して、17日の検査数値では、いつ尿毒症を起こしてもおかしくなく、すぐに透析療法を導入しない限りは近日中に生命の危険を生ずる蓋然性が認められたという点にあるであろう。
もうひとつの要素は、透析導入に向けられた患者側の努力と依頼意思の明確性という点だろう。17日の時点では、患者の家族らは被告病院入院時の付き添い態勢を整えたうえで、担当医に対して明確に透析導入を依頼している。本件では患者本人の精神疾患の存在が問題の焦点であるが、しかしそれは患者側にとってある意味自らコントロールできない事柄である。このような継続的透析を困難にする状況に対しても患者側は可能な限りの対応をとると被告病院に伝えたうえで真摯に透析導入を要請しているのである。つまり、患者側としてできる限りのこと、これがすなわち一方当事者である患者の責任範囲を画することになる。
患者側が尽くすべき手段を尽くして医療側に治療行為を依頼している以上は、今度は医療側が診療行為のうえで尽くすべき手を尽くしたか、との問題になってくる。本件の場合、判決は患者の精神疾患が継続的透析施行を困難にするほど重度なものではなかったと認定し、それでもなお血液透析導入を拒絶した医療側は、尽くすべき手を尽くさなかった、ということにもとづいて医療側の責任を肯定していると理解される。

事件2 内容

事件2. 拒絶反応進展による移植腎廃絶時における維持透析導入と医療側の説明義務

札幌高等裁判所平成5年6月17日判決- 第1審:釧路地方裁判所平成元年2月21日判決、判例集未掲載、控訴審:判例タイムズNo.848、1994.8.25

患者は、本件医療事故発生当時高校3年生の男子で、原告らはその両親である。過去に腎移植(掲載誌からは、その移植時期、原疾患、生体腎か死体腎かという諸事情が不明)を受けていたが、慢性拒絶反応が進展し、腎機能が急激に悪化したために被告病院に入院していた。
入院後、被告病院側は透析導入をする以外に、患者の救命を図ることはできないと診断し、血液透析への移行という方針を立てた。そして患者の父(原告のひとり)に対し、長時間電話で説得したが、原告らは頑としてこれに応じなかった。さらに患者の「心胸比(53%)に言及しながら肺水腫なので利尿だけでは生命が維持できないから血液透析に踏み切るよう」説得したが、これにも従わなかったので次の説得のために患者の診療について協力関係にあった他院の医師の来援まで要請していた。
しかし、予想外に短期間で患者の症状が悪化し、うっ血性心不全による肺水腫が発症して死亡という結果が発生してしまった。
そこで、患者の両親である原告らがこの結果は被告病院側が患者側に対する説明義務を十分に果たさなかったことから発生した結果であるとして、損害賠償を求めて訴えを提起したのが本件である。

事件2 判決

第1審、控訴審とも被告病院側の責任を否定


判決理由のひとつには、入院中患者の容態が比較的安定していて急激な悪化の予測が困難であったとの理由が挙げられているが、さらに上記のとおり、担当医らは患者の両親に対して生命の危険性にまで言及して何度も説得を試みていること、被告病院入院以前には、患者は多数回にわたり血液透析を受けており、患者及び両親は維持透析の目的及び内容について相当の知識を有していたこと、腎移植前には拒絶反応による透析再導入の可能性と、透析に戻ったとしても死に繋がるものではないということについても説明をしていた、との経緯を踏まえてそのように判断したものである。

事件2 判決の評価

この判決もまた、上記1に照らし、常識的に当たり前の結論との評価が多いであろう。しかし、それではなぜ当たり前なのかという点が問われなければならない。
この判決は、医療側の果たすべき説明義務の範囲が主要な問題として争われた事例と位置づけられ、近時はこのような医療側の説明義務は、患者側の診療行為の取捨選択(施行するかしないかも含めて)のうえでの自己決定権にもとづいて根拠づけられている。しかし、透析医療との関係でみた場合、本件はもう少し大きな枠組みで評価する必要があると思われる。
すなわち、これも維持透析という医療側と患者側の協力関係が必要とされる医療行為で、医療側に要求される責任範囲と患者側に要求される責任範囲が、それぞれどこまでかという問題にひき直される。
そこで、前述のように「生命の危険性まで含めて幾度か説明をしている」ということは、医療側としては尽くすべき手を尽くしたことになるので、あとは患者側がその勧告に添って透析導入を承諾したか否かという認定・評価の問題となってくる。

判例に学ぶ

以上のとおり、本稿で紹介した2件の事案はいずれも透析導入を必要とする緊急の客観的必要性が認められたにもかかわらず、これが施行されなかったというもの。両者で異なる点は、上記「1」の判決が、透析が施行されなかった理由が被告病院側にあったケースであるのに対して、上記「2」の判決においては、その理由が主として患者側にある事例という位置づけになると思われる。
2つの判決に共通する要素を抽出してみると次のようになる。
診療行為とは、医療側と患者側の共同作業であるとか、両者の信頼関係にもとづく協力関係が不可欠だとは抽象的には良く言われる。そして冒頭で述べたとおり、透析医療においてはこのような要素はさらに顕著となり、医療側と患者側の高度の信頼関係にもとづく協力関係が必要となる。このような継続的維持透析療法の性格については、本稿で今さらに言うまでもなく、従来から腎不全と維持透析を巡る多くの医療文献上で述べられていることである。
医療とは協働関係であるとした場合、医療側と患者側のそれぞれの守備範囲はどこからどこまでかが問題となり、それが一度医療事故が発生した場合には、それがすなわち、医療と患者それぞれの責任範囲を画することにもなる。つまり、観念的に単純に言いきるならば、当事者双方とも尽くすべき手を尽くして各自の守備範囲を守っていたかどうかが問題なのであり、その範囲を守っていたならば医療側は責任がないし、それに欠けるところがある場合には責任があることになる。患者側も、その責任範囲を守っていなかったという場合には、有責の場合でも賠償額が減額されたり(過失相殺)、医療側の責任が否定されたりすることがある。
上記2つの判例に出てきた医師の裁量範囲であるとか、医師の説明義務と患者の自己決定権であるとか、観念的な言葉にしてしまうと、訳がわからないように思われるが、要は単純に図式化してしまえば、医療側・患者側それぞれの立場と能力に応じて診療目的達成のために最善の努力を払って、尽くすべき方途を尽くしていたかということが、医療事故発生時における責任の有無を分かつことになる。
ただし、透析医療にあっても、患者側ができることというのは日常の自己管理(水分・食物等)、必要な透析を拒否しないで受けること、問題が起こった場合の受診と医師への報告などの基本的事項に限られ、これ以外の医療側の責任範囲は非常に広いということは忘れられてはならない。