Vol.022 医療慣行に従って医療行為を行っても医師は当然には免責されない

~医薬品の添付文書に従っていなければ、たとえ医療慣行に従っていたとしても過失が推定される~

-最高裁判所平成8年1月23日判決-
協力:「医療問題弁護団」高橋 正人弁護士

* 判例の選択は、医師側もしくは患者側の立場を意図したものではなく、中立の立場をとらせていただきます。

事件内容

麻酔薬である「ぺルカミンs」の添付文書によると、同薬剤を投与したときには、使用後2分ごとに血圧を測定すべきことが注意書きとして記載されていた。しかし、当時の開業医の医療慣行によると5分ごとに血圧を測定することになっていたため、被告医師は5分ごとに担当患者の血圧を測定。そうしたところ、その差である3分の間に患者の血圧が急激に低下し、死亡したという事案である。

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判決

被上告人(医師)の注意義務違反を認める


医療水準は医師の注意義務の基準(規範)となるべきものであるから、平均的な医師が現に行っている医療慣行とは必ずしも一致するものではなく、医師が医療慣行に従った医療行為を行ったからといって医療水準に従った注意義務を尽くしたとただちに言うことはできない。
医薬品の添付文書(能書)の記載事項は、当該薬品の危険性(副作用等)についてもっとも高度の情報を有している製造業者、または輸入販売業者が投与を受ける患者の安全を確保するために、これを使用する医師等に対して必要な情報を提供する目的で記載するものであるから、医師が医薬品を使用するにあたって右文書に記載された使用上の注意事項に従わず、それによって医療事故が発生した場合には、これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限りは当該医師の過失が推定されるものと言うべきである。
鑑定人によると、急激な血圧低下は通常、煩雑に、すなわち1ないし2分間隔で血圧を測定することにより発見しうるものであり、このようなショックの発現はどの教科書にも頻回に血圧を測定し、心電図を観察し、脈拍数の変化に注意して発見すべきと書かれており、他面、2分間隔での血圧測定の実施は、なんら高度の知識や技術が要求されるものではなく、血圧測定を行いうる通常の看護師を配置してさえおけば足りるものであって、本件でもこれを行うことに格別の支障があったわけではないのであるから、被上告人(医師)が能書に記載された注意事項に従わなかったことにつき合理的な理由があったとは言えないとした。

判例に学ぶ

医師が守るべき注意義務の基準、つまり医療水準を示したリーディングケースとしては、東大輸血梅毒事件の最判S36.2.16(民集15巻2号244P)があります。ここでは、「いやしくも人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者は、その業務の性質に照らし、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求される」と判示しました。ただ、注意義務の内容について、医「学」の最高水準を基準とすべきなのか、実際の臨床の現場における医「療」水準を基準とすべきなのかについては明確に述べられていません。
その後、未熟児網膜症新小倉病院事件において(最判S57.3.30)、この点についての判断が示され、「診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準」に従わなければならないものとされました。この基準は、その後の判例でも繰り返し引用されています。
もっとも、ここでいうところの「臨床医学の実践における医療水準」の具体的な内容については、なおも明らかにされてはいませんでした。そのため、その後の下級審の判例をみると、「臨床医学の実践」という言葉だけがひとり歩きをし、現に行われている診療が医療水準であるかのごとき判断がみられたり、あるいは医療現場における医療体制や医療設備の不備、ないしは人員の不足に配慮するあまり、「臨床医学の実践における医療水準」をあまりに低く設定したりするものもありました。しかし、このような医療水準の捉え方では医学界の常例や医療界の常識を無批判に追認することと同じであり、また、被害者にはなんのかかわりのない体制の不備や人員の不足にもとづいて形成された当該医療機関の医療慣行までもが臨床医学の実践における医療水準とされてしまって、医師が守るべき行為基準としての法的な規範たりえないという多くの批判が寄せられていました。
以上のような医療水準論の議論の中で、前述平成8年の画期的な判決が言い渡されたのです。すなわち同判決によると医療慣行は必ずしも医療水準と一致するものではなく、ただちに注意義務の基準となりえないことが明確にされたのです。したがいまして、たとえ医療慣行に従って医療行為を行ったとしても、そのことから当然には医師は免責されません。これは法律家の目からみればあまりにも当然の判決でした。同判決は、それまでの多くの下級審の誤解を正し、一般に「法的」な観点から医療水準を捉え直したものとして高く評価されています。
そもそも、医療水準は医師の具体的な行為基準であり、守るべき「規範」の問題ですから、それは医療側の論理のみで形成されるものではないと考えられます。そして医療慣行に代わって投薬の際の医師の注意義務の内容を規定するのは、具体的には能書であり、より本質的には「(何人であれ)能書には従うべき」という、いわば「一般人の常識」(伊藤文夫・山口斉昭・判タ957号46p・4段目)にあります。前記判決に即して言えば、何人であれ能書には従うべきというのが一般人の常識であり、他方、能書に従わなかったことについて特段の合理的理由があったかどうかについて一般通常人の目からみて判断したところ、「血圧測定には何ら高度の知識や技術が要求されるわけではなく、単に血圧測定を行い得る通常の看護婦を配置してさえおけば足りる」ことが明らかですから、その結果として能書に従わなかったことによって起きた事故について過失が推定されるとしたと考えられます。すなわち判タ957号47p・2段目において、「ここで、2分間での血圧測定がクローズアップされるのは、むしろ、それに従わないことにつき特段の合理的理由がないからであり、本判決も、いわば“一般人の目からもそれに従わないことにつき理由がないような能書”に従わなかったという場合のみを問題として、その結果、事故が生じた場合には過失が推定される」と述べられています。
医療水準は法的判断でなければならないとした同判決は、きわめて当然のことを確認したにすぎないのであり、それまでのいわゆる「専門家の意見」、「鑑定人の意見」のみを無批判に受け入れ、医療側が主張する「医療の現場の実態」と称する現状肯定的意見を鵜呑みにしてきた一部の下級審の裁判例こそ厳しく批判されなければなりません。
平成8年判決に対する評価は、他の判例評釈でも高く評価されています。たとえば、「過失の行為基準である医療水準と医療慣行とを峻別して医療水準を具体的に設定した画期的なもの」(医療判例ガイド315p・有斐閣)との積極的な評価がなされ、「本判決(平成8年判決)は、医薬品の能書の記載と異なる医療慣行があった場合で、能書の記載によって要求されている注意の程度が医療慣行よりも高い場合について、最高裁として初めて判断を示したものであり、今後の同種事案の解決にとって大きな意義を有するものと言えよう」(植垣勝裕・判タ945号71p・3段目)との評価がなされています。学説上も、「医薬品製造者の医師に対する用法指示が適切であったときは、その薬禍は医師の責任に帰せられる」(山口浩一郎「医薬製造者の民事責任」現代損害賠償法講座・4巻465p)と述べられています。
では、医療水準は何を基準に設定すべきでしょうか。平成8年判決に則れば、「具体的な医療水準が問題となる場合は、医師が日常的に行っている医療行為ではなく、医薬品の添付文書や日常診療において指針とされるべき医学文献等の記載内容が医療水準を検討するうえでより重要なもの」(医療判例ガイド315p・有斐閣)となってくることは当然でしょう。
もちろん、平成8年判決といえども、「合理的な医療慣行をも否定したものではなく、また、能書=医療水準としたものでもない。当然ながら、医療慣行は医療水準確定の際重要な資料となりうるであろうし、医師自らがそれを合理的に説明しうるような特段の理由がある場合には、裁量により、能書に従わないことも認められる」(伊藤文夫・山口斉昭・判タ957号47p・1段目)ことになります。しかし、その裁量にも法的な観点から「合理的に説明しうるような特段の理由がある」というしばりがあります。医「学」が、純粋に実験室の中で行われているのにすぎないのであれば、そのなしうる範囲には限界はないでしょう。他人との権利義務関係は生じないからです。しかし、それが純粋な実験室の領域を越え、他人の権利義務と直接の関係を持つ、いわゆる「医業」の中で行われるのであれば、客観的行為規範に従わなければなりません。ですからたとえ平均的な医師が行っている医療慣行であったとしても、それが多数の客観的な文献の示すところの行為規範(スタンダード)に反しているのであれば、特段の合理的な理由を医師が証明しなければならず、証明に失敗すれば医師の過失が推定されることになります。
平成8年判決後、医療水準の設定にあたって医学文献を重視する傾向が、下級審・最高裁を問わず強くなってきました。たとえば顆粒球減少症事件の平成9年2月25日の最高裁判決は、従来の一部の下級審が犯してきた誤り、つまり医学文献に反する鑑定意見であるにもかかわらず、いわゆる「専門家」の意見であるとしてこれに偏重してきた誤りを是正したものと評価されています。同事案は、顆粒球減少症の副作用を有する複数の薬剤の投与を原因として患者が同症にかかった事案です。ここで判旨は、医学文献の指摘に照らして考えれば、ネオマイゾンを唯一の単独の起因剤と認定することには著しく無理があるにもかかわらず、医学文献に反する鑑定意見に依拠して原告を敗訴させた原審を厳しく批判し、そのような鑑定意見はひとつの医学上の仮説を述べたにとどまり、医学研究の見地からはともかく、訴訟上の証明の観点からは決定的な証拠資料にはならず、そのような事実認定は経験則に違反するとしました。判例評釈においても、「本判決は、鑑定はあくまでも医学の分野における一つの仮説を述べたに止まり、訴訟上の証明についての決定的な証拠資料であるとは言えないとして、裁判所がその内容について再吟味を行うべきこと並びに鑑定に沿う証拠がない場合に、鑑定に沿う事実認定をするときに鑑定の証拠評価を十分に行う必要があることを示した点において注目される」と評価されています(田中敦・判タ978号・95p)。