被告医師らの注意義務違反を認める
1 ウェルニッケ脳症を予見し、その発症を防止すべき注意義務に関する判例要旨
高カロリー輸液はビタミンなどが完全に調整されたかたちでは販売されていない。一方、ビタミンは糖類、アミノ酸、脂質の代謝を円滑に行わせるための補酵素として重要な役割を果たしており、体内で合成されない性質のものである。したがって、高カロリー輸液による栄養管理が長期にわたる場合には適正量のビタミンB1を輸液とともに投与しなければならず、それを怠れば7日程度でビタミン欠乏症を発症する可能性がある。とりわけビタミンB1は、ブドウ糖をエネルギーに変えるために必要な補酵素であり、1日当たりの所要量は1ないし2グラムであるが、高カロリー輸液施行時には、代謝過剰分が速やかに尿中に排泄される水溶性ビタミンであり、体内に貯蓄されたビタミンB1の消費は促進され、早期にその枯渇をきたすことが認められる。ビタミンB1欠乏症の典型的な疾患は脚気、アシドーシス及びウェルニッケ脳症で、いずれもビタミンB1摂取により防止できることが認められている。そのため、ビタミンB1を投与せずに高カロリー輸液を施行すれば、ビタミン欠乏症の典型的疾患であるウェルニッケ脳症を発症させる危険があり、これを防止するためにはビタミンB1の摂取、投与が必要なのである。
これらの医学的知見は、平成4年6月当時において、被告医師らにその獲得を期待することが相当な臨床医学上の知見であったと言える。被告医師らには上知見を有することを前提として、栄養を経口摂取できない患者に対し、ビタミンB1を投与せずに高カロリー輸液を行えば、ビタミンB1欠乏症を発症させる危険があることを予見すべき義務が認められる。さらに、上義務を尽くしていれば、ビタミン剤をいっさい投与しないで高カロリー輸液を施行した場合には、ビタミンB1欠乏によりウェルニッケ脳症が発症する危険があることを容易に予見しえたはずである。
治療経過及び原告の症状に照らすと、本件手術直後の原告に対し高カロリー輸液を行えばビタミンB1が欠乏する状態にあったのであるから、このような原告に対して、高カロリー輸液を行うにあたって、ウェルニッケ脳症の発症を予見することなく高カロリー輸液中にビタミンB1を投与しなかった被告医師らには注意義務違反が認められる。
2 被告らの抗弁と裁判所の見解
被告らは、平成2年9月の医薬品副作用情報では、高カロリー輸液時に致死的アシドーシス(酸欠症)を起こす例があり、ビタミンB1を投与されていない患者などアシドーシスを発現しやすい状態にある患者には特に注意が必要であるとされていたが、アシドーシスとビタミンB1の関係には触れておらず、本件当時、ビタミンB1を添加しない高カロリー輸液とウェルニッケ脳症との関係について医学的知見が確立していなかった、また厚生省が平成4年4月に、社会保険・老人保険診療報酬点数表を改正し、給食料を算定している患者に対するビタミン剤の注射について、別に厚生大臣が定める場合を除き算定しないと定めたところ、同通達はビタミン剤使用を事実上制限したものであり、医師らがビタミンB1を添加しない高カロリー輸液を施行したのは不可抗力であるなどと抗弁した。
これに対し、判決は「医薬品の副作用に関する情報は『緊急安全性情報』あるいは『医薬品副作用情報』などとして製薬会社あるいは厚生省が医療関係者に報告しており、高カロリー輸液については平成2年9月及び平成3年11月の各医薬品副作用情報や平成3年10月の緊急安全情報などで高カロリー輸液施行中に重篤なアシドーシスが発生する例のあることが報告され、ビタミンB1を投与されていない患者などアシドーシスを発現しやすい状態にある患者には特に注意し、アシドーシスの発現やその兆候が現れた場合には、ただちに高カロリー輸液の投与を中止して適切な処置をするように指示していることが認められる。これらの一連の副作用情報と解説等では高カロリー輸液施行中のアシドーシスの発生機序までは明らかにされてはいないものの、そのことをもってただちに被告医師らの注意義務が否定ないし軽減されるものではない」とした。
また、ビタミン剤の投与が保険の診療報酬の点数から外されたことによる不可抗力であるとの反論には、「保険点数の規定は健康保険医療の対象となる範囲を定めるにすぎず、治療方法に関する医師の専門的判断を拘束するものではない。したがって、特定の治療方法を健康保険の対象から外すことによって、医師が選択できる治療方法が事実上制限されることのあることは否定できないにしても、このことがただちに医師の患者に対する法律上の注意義務を軽減し、または免除する根拠となるわけではない」として、それぞれ被告らの反論を退けた。
高カロリー輸液施行中にビタミンB1を投与しないでウェルニッケ脳症になって裁判となった事例は、本件のほかに「大阪高裁平成12年(ネ)第1154号、平成13年1月23日判決」がある。