Vol.036 医師は、薬品の副作用や禁忌などの医学知見等について、常に最新情報を念頭に入れるべき

~高カロリー輸液施行中のビタミンB1の不投与によって患者にウェルニッケ脳症を罹患させた事例~

協力:「医療問題弁護団」大谷 直弁護士

* 判例の選択は、医師側もしくは患者側の立場を意図したものではなく、中立の立場をとらせていただきます。

事件内容

Xは、平成4年4月初旬ころより胃の痛みを訴え、薬を服用しても症状が軽減しなかったため同年6月22日にY病院を受診した。同日、胃の内視鏡検査により大きな腫瘍が発見されたため同年6月29日にY病院に入院。入院後の検査により胃の部分にがんが発見され胃悪性リンパ腫と診断された。
同年7月14日、Xは副院長兼外科部長Yを主治医として胃及び脾臓の全摘手術を受けた。
被告医師らは、Xに対し本件手術の前日以降経口摂取に代えて、またはそれと併行して同年7月15日から同年8月19日までの間、糖質輸液または高カロリー輸液による栄養補給を行ったが、その際ビタミンB1を含むビタミン剤をいっさい投与しなかった(この事実に争いなし)。
本件手術後、Xは7月20日から飲水が許可され、7月23日の昼からは流動食が開始され、翌24日には3分粥、翌25日からは5分粥と進んだが、同月22日以降、Xは腹部痛を訴えて嘔吐や下痢を繰り返し、レントゲン検査で腸閉塞が疑われたため、同月27日昼からは再び禁飲食とされた。
その後も一時的に飲食が再開されたが嘔吐が毎日のようにつづいていた。
8月10日ころからXは物忘れが激しくなり、「夢と現実が混ざってよくわからない」などと訴えるようになっており、同月19日からは時間の感覚や前夜の記憶がないなど意識障害が現われた。その後Xは同月21日に突然、錯乱状態をきたしたため同月25日づけで大学病院の脳神経内科に転院した。
大学病院はビタミン不足を疑い、Xに対してビタミン投与を開始したところ、Xの意識が改善し、数日して眼球運動などに改善が認められた。同院では検査の結果、Xの血中ビタミン濃度がきわめて低かったことから「ウェルニッケ脳症」と診断した。
その後も同院でビタミン投与の治療が継続され、Xの症状のうち意識障害をはじめとするいくつかの症状は改善したものの、近時記憶障害、右眼球運動障害、方向転換や直線上をまっすぐに歩けないなどの、失調性歩行、下肢の痺れを主とする神経障害などが残存することとなった。
Xは、遅くとも同年8月10日の時点でXがビタミンB1欠乏状態にあることを疑い、ただちにビタミンB1を大量に投与すれば症状の悪化を防止し改善を図りえたと主張し、Yらに対して損害賠償を求める訴えを提起した。

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判決

被告医師らの注意義務違反を認める

1 ウェルニッケ脳症を予見し、その発症を防止すべき注意義務に関する判例要旨

高カロリー輸液はビタミンなどが完全に調整されたかたちでは販売されていない。一方、ビタミンは糖類、アミノ酸、脂質の代謝を円滑に行わせるための補酵素として重要な役割を果たしており、体内で合成されない性質のものである。したがって、高カロリー輸液による栄養管理が長期にわたる場合には適正量のビタミンB1を輸液とともに投与しなければならず、それを怠れば7日程度でビタミン欠乏症を発症する可能性がある。とりわけビタミンB1は、ブドウ糖をエネルギーに変えるために必要な補酵素であり、1日当たりの所要量は1ないし2グラムであるが、高カロリー輸液施行時には、代謝過剰分が速やかに尿中に排泄される水溶性ビタミンであり、体内に貯蓄されたビタミンB1の消費は促進され、早期にその枯渇をきたすことが認められる。ビタミンB1欠乏症の典型的な疾患は脚気、アシドーシス及びウェルニッケ脳症で、いずれもビタミンB1摂取により防止できることが認められている。そのため、ビタミンB1を投与せずに高カロリー輸液を施行すれば、ビタミン欠乏症の典型的疾患であるウェルニッケ脳症を発症させる危険があり、これを防止するためにはビタミンB1の摂取、投与が必要なのである。
これらの医学的知見は、平成4年6月当時において、被告医師らにその獲得を期待することが相当な臨床医学上の知見であったと言える。被告医師らには上知見を有することを前提として、栄養を経口摂取できない患者に対し、ビタミンB1を投与せずに高カロリー輸液を行えば、ビタミンB1欠乏症を発症させる危険があることを予見すべき義務が認められる。さらに、上義務を尽くしていれば、ビタミン剤をいっさい投与しないで高カロリー輸液を施行した場合には、ビタミンB1欠乏によりウェルニッケ脳症が発症する危険があることを容易に予見しえたはずである。 治療経過及び原告の症状に照らすと、本件手術直後の原告に対し高カロリー輸液を行えばビタミンB1が欠乏する状態にあったのであるから、このような原告に対して、高カロリー輸液を行うにあたって、ウェルニッケ脳症の発症を予見することなく高カロリー輸液中にビタミンB1を投与しなかった被告医師らには注意義務違反が認められる。


2 被告らの抗弁と裁判所の見解

被告らは、平成2年9月の医薬品副作用情報では、高カロリー輸液時に致死的アシドーシス(酸欠症)を起こす例があり、ビタミンB1を投与されていない患者などアシドーシスを発現しやすい状態にある患者には特に注意が必要であるとされていたが、アシドーシスとビタミンB1の関係には触れておらず、本件当時、ビタミンB1を添加しない高カロリー輸液とウェルニッケ脳症との関係について医学的知見が確立していなかった、また厚生省が平成4年4月に、社会保険・老人保険診療報酬点数表を改正し、給食料を算定している患者に対するビタミン剤の注射について、別に厚生大臣が定める場合を除き算定しないと定めたところ、同通達はビタミン剤使用を事実上制限したものであり、医師らがビタミンB1を添加しない高カロリー輸液を施行したのは不可抗力であるなどと抗弁した。
これに対し、判決は「医薬品の副作用に関する情報は『緊急安全性情報』あるいは『医薬品副作用情報』などとして製薬会社あるいは厚生省が医療関係者に報告しており、高カロリー輸液については平成2年9月及び平成3年11月の各医薬品副作用情報や平成3年10月の緊急安全情報などで高カロリー輸液施行中に重篤なアシドーシスが発生する例のあることが報告され、ビタミンB1を投与されていない患者などアシドーシスを発現しやすい状態にある患者には特に注意し、アシドーシスの発現やその兆候が現れた場合には、ただちに高カロリー輸液の投与を中止して適切な処置をするように指示していることが認められる。これらの一連の副作用情報と解説等では高カロリー輸液施行中のアシドーシスの発生機序までは明らかにされてはいないものの、そのことをもってただちに被告医師らの注意義務が否定ないし軽減されるものではない」とした。
また、ビタミン剤の投与が保険の診療報酬の点数から外されたことによる不可抗力であるとの反論には、「保険点数の規定は健康保険医療の対象となる範囲を定めるにすぎず、治療方法に関する医師の専門的判断を拘束するものではない。したがって、特定の治療方法を健康保険の対象から外すことによって、医師が選択できる治療方法が事実上制限されることのあることは否定できないにしても、このことがただちに医師の患者に対する法律上の注意義務を軽減し、または免除する根拠となるわけではない」として、それぞれ被告らの反論を退けた。
高カロリー輸液施行中にビタミンB1を投与しないでウェルニッケ脳症になって裁判となった事例は、本件のほかに「大阪高裁平成12年(ネ)第1154号、平成13年1月23日判決」がある。

判例に学ぶ

今日、医療は日進月歩を遂げており、薬品などに関してその副作用や禁忌など新たな医学的知見も日に日に解明されています。
医療過誤事件では事件当時における一般的な医療水準から判断して医師らにいかなる注意義務が課せられるのか、その中身が判断されますが、本件においては平成4年当時の高カロリー輸液施行中の注意義務についての医療水準がメルクマールとなっています。
当時は高カロリー輸液施行中のビタミンB1の不投与がウェルニッケ脳症を罹患させる危険性があることについてすべての医師に知見があったかについては疑問があるケースです。そして、反論にあるように保険診療の対象から外されたためにビタミンB1の投与をとりやめた(それまでは投与していたが)ため、本件のようなウェルニッケ脳症となるケースが相次いで起こりました。
判決は、副作用について医療情報が当時存在したこと、あるいは厚生省の通達や医薬品会社の副作用説明書などをもって一般的に当時の医学的知見が存在したと認定しており、専門医師として「うっかり知りませんでした」では免責されないことが示されています。
その意味で本件に限らず、薬品の副作用や禁忌などの医学知見(あるいは治療方法などの医学的知見についても同様)については、現場の医師としては常に最新の医療情報を頭に入れ、細心の注意を払ったうえで診療にあたることが必要でしょう。