Vol.071 毒物及び劇物における厳重な管理とリスク対策の必要性

~アジ化ナトリウム誤投与事件~

-東京地裁平成20年2月18日判決(平成19年(ワ)第7490号)-
協力:「医療問題弁護団」後藤 真紀子弁護士

* 判例の選択は、医師側もしくは患者側の立場を意図したものではなく、中立の立場をとらせていただきます。

はじめに

 本判決は、入院中の糖尿病患者に蓄尿検査をするにあたり看護師が防腐剤として使用するアジ化ナトリウム(注)を誤って投与し、患者がアジ化ナトリウム中毒による白質脳症となり、身のまわりの動作に全面的な介護を要する状態(高次脳機能障害)にいたったことにつき、医療機関の責任を認めた事案である。

注: アジ化ナトリウムは防腐剤、農薬原料などに用いられ、毒物及び劇物取締法において毒物に指定されている。アジ化物イオンは細胞の呼吸を阻害する作用があり、一酸化炭素と同様にヘモグロビンに対し不可逆的な結合を形成し、これにより細胞が死にいたる。アジ化ナトリウムを大量に摂取すると、痙攣、血圧降下、意識不明、呼吸不全等を引き起こし死にいたる。アジ化ナトリウム中毒から回復したとしても、脳などに深刻な後遺症が残る。蓄尿検査においては尿の腐敗を防ぎ、成分を安定させておくためにアジ化ナトリウムを蓄尿するつぼに入れることとされている。

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事件内容

 平成16年7月29日、糖尿病のため、血糖コントロール及び食事療法の指導等の目的でY市民病院(以下、Y病院)に入院中であったX(女性、当時53歳)につき、主治医のA医師が、B看護師に対して蓄尿検査(Cペプタイド尿)の指示を出した。
これにもとづき、B看護師は、同日午後4時10分、蓄尿検査の際に防腐剤として使用するアジ化ナトリウムを検査科に取りに行き、午後4時25分ころ、C看護師に対して、Xの蓄尿検査を行うよう指示。アジ化ナトリウムの入った薬包紙をC看護師に渡した。
ところが、C看護師は、B看護師から渡された薬包紙の中身を内服薬であると思い込み、これをXに渡して、内服するように指示した。これを服用したXは、血圧低下、全身硬直性痙攣、意識障害等の中毒症状に陥り、アジ化ナトリウム中毒による低酸素脳症から白質脳症となった。
その後、Xは、同月30日に、Y病院からD大学附属病院に、同年8月16日にE大学附属病院に転院し、さらに平成17年8月中旬にFリハビリテーション病院入院を経て、平成18年3月30日にG総合病院に転院し、入院を継続している。
Xは、認知機能障害、脱抑制、無為が強く、認知症の状態であり、HDS‐R(改訂長谷川式簡易知的機能評価スケール)等は評価不能であるとされた。また頭部MRIでは、広範な白質の障害が認められ、今後もこれらの状態が継続すると考えられるとして平成17年8月29日に症状固定の診断がなされた。
日常生活においてXは会話ができず、1日中奇声を発することもある状態であり、更衣、入浴、排泄等の日常生活の維持に必要な身のまわりの動作を独力で行うことは不可能であるため、生命維持に必要な身辺動作について常時介護が必要であると言え、Xの後遺障害は、後遺障害等級1級(「神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し、常に介護を要するもの」)に該当する(労働能力喪失率は100%)。
そこでXとその夫と3人の子(以下、Xら)が、C看護師が蓄尿検査の際にアジ化ナトリウムが防腐剤として用いられることを認識しておらず、誤ってアジ化ナトリウムをXに投与し、これによりXがアジ化ナトリウム中毒による低酸素脳症を発症したことにつき、C看護師の使用者であるY病院に対し、損害賠償請求の訴えを提起した。

争点

C看護師が誤ってアジ化ナトリウムをXに投与したために、Xがアジ化ナトリウム中毒による低酸素脳症を発症したことについては争いがなく、C看護師の使用者であるY病院が民法715条にもとづき、Xらに生じた損害を賠償する責任を負うことを前提に、もっぱらX及びその家族に生じた損害が問題とされた。
Xらは、Xと同年齢の女性(口頭弁論終結時56歳)の平均余命期間(31・25年)についての将来の付添看護費用(4534万円余)及び症状固定時から67歳までの逸失利益(4082万円余)等を請求したが、糖尿病に罹患していたXの余命について争いが生じた。
すなわち、Y病院は、平成16年7月時点のXの血糖コントロールがきわめて不良であり、HbA1cの数値が11・5%に達していたこと、Xが糖尿病の3大合併症(トリオパシー)である糖尿病性網膜症、糖尿病性腎症、糖尿病性神経症を発症していたことから、血糖コントロールが不良で糖尿病性腎症のある女性の平均寿命は63・9歳であるとのデータを示し、将来の付添看護費用及び逸失利益を算定するにあたっては、算定の対象となる期間を症状固定時(当時54歳)から9年として算定すべきと主張した。
これに対し、Xらは、Xの糖尿病性腎症は初期の段階で軽度であること、現在では血糖コントロールなどの治療を行うことにより、糖尿病性腎症の発症や進行が以前にくらべて明らかに抑制されるようになっており、加えて糖尿病性腎症の寛解、退縮が生じることが明らかにされていること、XのHbA1cの数値は、平成19年現在5・8%を下まわっており、良好に血糖値をコントロールしていることなどから、将来の付添看護費用と逸失利益を算定するにあたっては、Xの余命が日本人女性の平均余命と同じであることを前提にして、算定すべきであると反論した。

判決

Xの症状固定時からの余命期間を20年と想定


裁判所は、(1)Xの糖尿病の症状について、単に糖尿病に罹患しているのみならず、その3大合併症をいずれも併発していたこと(Xの余命に血糖コントロール状況の良否が及ぼす影響が大きいこと)、被告病院に入院するまではXに過食の改善が見られず、HbA1cも8・0%以上がつづいていた、すなわち血糖コントロールが「不可」の領域であったこと(ただし、その後「優」の領域に戻っている)、(2)昭和56年から平成2年までの10年間の糖尿病性腎症患者の予後に関する報告や米国人を対象とする糖尿病患者の余命に関する最近の報告内容、(3)糖尿病性腎症患者の予後が改善しつつあること、そのほかいっさいの事情を考慮して、症状固定時(54歳)からの余命期間を20年と想定してXの将来の付添看護費用を算定し(3638万円余)、また、67歳までは専業主婦として家事労働に従事することが可能であったことを前提とし、Xの逸失利益を算定する(3289万円余)ことが相当であると判断した。

判例に学ぶ

本判決は、Xが糖尿病の3大合併症を発症しており、血糖コントロールがうまくいっていなかったと考えられること、統計的資料によれば糖尿病性腎症に罹患している女性患者のうち血糖コントロール不良群の平均死亡時年齢が63・9歳、糖尿病性腎症に罹患している女性患者(全症例)の平均死亡時年齢が65・0歳であることを、Xが平均余命まで生存する可能性を否定する要素としているものと考えられます。
他方で、Xがインスリン導入による血糖コントロールと糖尿病についての食事療法を行う目的でY病院に入院したことや、入院中に血糖コントロールが「可」の領域に入り、平成19年1月から6月には血糖コントロールが「優」の領域であったことや、現代医学において糖尿病性腎症患者の予後が改善されつつあることを、Xが平均余命まで生存する可能性を肯定する要素としているものと考えられます。
一般に、医療過誤訴訟を含む人身損害賠償請求事件においては、将来の付添看護費用は、平均余命まで生存することを前提に算定することとされており、逸失利益は67歳までを就労可能期間として算定することとされています。
本件のように、患者が重篤な疾患に罹患している場合は平均余命よりも余命が短いと考えられることから、Y病院がこの点を争うにいたり、裁判所は前記のような要素を総合的に考慮して、 Xの余命期間を20年、労働可能期間を67歳までと認定したものです。
なお、本件では、大きな争いにはなっていませんが、Xには後遺症慰謝料及び入院慰謝料が認められたほか、夫及び3人の子についても、妻ないし母が本件後遺障害のために意思疎通能力を失い、生命維持に必要な身辺動作について常時介護を必要とするようになったことによって、Xが死亡した場合にも比肩すべき精神的苦痛を受けたものとして、それぞれに固有の慰謝料を認めています。
このような固有の慰謝料を認定した背景には、アジ化ナトリウムが毒物及び劇物取締法における毒物に指定されていること、本件はこのような危険な毒物を患者に服用させるというきわめて単純なミスであったこと、このような事故は病院内での取り扱いを厳重に定めておけば十分に回避できた、などということがあったと考えられます(なお、Y病院では本件の後、アジ化ナトリウムの取り扱いについては、薬剤を混同しないために薬包紙からスピッツに変更するというリスク対策がとられるようになっています)。
アジ化ナトリウムは、1998年にポットの湯などに混入される事件が相次いだことから、1999年に当時の厚生省により毒物及び劇物取締法における毒物に指定されました。にもかかわらず、 2002年には、本件と同様、引き継ぎが不十分であったために、看護師が薬と間違えて患者にアジ化ナトリウムを渡したことによる誤服薬によって患者が死亡する事件が起こっていました。
本件は、そのわずか2年後の事故であり、かつ態様をまったく同じにするものですから、2002年の教訓が生かされていれば回避できた事故であったと言えます。
本件は、裁判例としては、明らかな過失の認められる事件について損害論を争ったものですが、その明らかな過失の内容を吟味し再発防止に生かすべきです。単に看護師のミスにすぎない、その医療機関個別の問題にすぎないなどの問題で終わらせずに、どの病院でも起こりうるシステムエラーであると認識し、それぞれの病院で事故防止策がとられることによって、第3の事例が起きないことを願うばかりです。その対策がとられてこそ「判例に学ぶ」と言えるでしょう。