本判決は、Aの死因は「肺血栓塞栓症による急性呼吸不全」であると認定したうえで、以下のとおり判示した。
1 弾性ストッキングないし弾性包帯着用の不実施について(過失あり)
ガイドライン(肺血栓塞栓症/深部静脈血栓症〈静脈血栓塞栓症〉予防ガイドライン)が平成16年6月には提言され医療現場においても周知されていたこと、同月1日に本件病院に入院した時点において、Aは一定程度の確率で下肢深部静脈血栓症及び肺血栓塞栓症を発症する危険を有する脳卒中患者であり、かつ、一定程度の期間の臥床が予定されていたこと、 Aには右下肢麻痺及び肥満という肺血栓塞栓症の危険因子があったこと、担当医師も入院翌日の同月2日に、Aの夫に対し肺塞栓症のリスクを説明したことが認められ、これらの事実からすれば、本件病院医師らは、Aが入院した時点においてAに肺血栓塞栓症が生じる危険性が高いことを具体的に予見することが可能であったと評価することができる。
そして肺血栓塞栓症がいったん発生した場合の死亡率が高いこと、本件当時、ガイドラインによれば弾性ストッキングの着用が推奨され我が国における肺血栓塞栓症の予防法の主流は弾性ストッキングであったこと、弾性ストッキング着用は保険が適用される予防法となっていたことに照らして考えると、本件当時の臨床医学の実践における医療水準としては弾性ストッキングないし弾性包帯の着用が一般的標準的な予防法となっていたものと考えられる。そうすると、Aに肺血栓塞栓症が生じることを具体的に予見することが可能であった本件医師らは、前記医療水準に照らし、肺血栓塞栓症の予防のため、Aに対し入院時から弾性ストッキングないし弾性包帯を着用させる注意義務を負っていたと言うべきである。本件医師らには、Aに対し、弾性ストッキングないし弾性包帯を着用させなかった過失がある。
2 間欠的空気圧迫法の不実施について(過失なし)
本件当時、間欠的空気圧迫法(下肢に巻いたカフ〈加圧帯〉に機器を用いて空気を間欠的に挿入して下肢をマッサージするもの)は、肺血栓塞栓症の予防に有効であるとして推奨されていたが、我が国においては、各施設の間欠的空気圧迫装置自体の不足もあり、肺血栓塞栓症の予防法は弾性ストッキング着用が主流となっていたことが認められる。したがって本件当時、肺血栓塞栓症の予防のために間欠的空気圧迫法を実施することが、本件病院と同規模の病院での臨床医学の実践における医療水準となっていたとまで認めることはできない。
3 薬物的予防措置(ヘパリン投与)の不実施について(過失なし)
Aは同月1日に脳内出血を起こしたのであるから、容態が急変した同月4日0時35分ごろの時点において、Aは急性期の脳内出血患者であり、頭蓋内出血のおそれがあったと言える。
そして、出血性脳血管障害患者に対する肺血栓塞栓症の予防法としては、抗凝固剤の投与ではなく、弾性ストッキングや間欠的空気圧迫法といった理学的予防法が推奨されており、頭蓋内出血の疑いのある患者に対するヘパリンの投与はむしろ原則禁忌とされていることからすれば、本件医師らがAに対し、肺血栓塞栓症の予防措置として低用量未分画ヘパリンまたは低分子量ヘパリンの投与をしなかったことをもって、過失と評価することはできない。
4 本件医師らの過失とA死亡との相当因果関係について(因果関係は認められない)
適切な予防法を行っても肺血栓塞栓症の予防は困難であるとされていることが認められることに加え、Aが高度肥満であったことを総合すると、同月1日の入院当初からAに弾性ストッキングないし弾性包帯を着用させていたとしても、Aが同月4日に肺血栓塞栓症を発症して死亡することを確実には回避できなかった可能性が高いと考えられる。したがって、 Aが死亡日を超えてなお生存していた高度の蓋然性があるとは言えないから、本件医師らの注意義務違反とAの死亡との間に相当因果関係を認めることはできないと言うべきである。
5 本件医師らの過失がなければAの死亡を回避しえた相当程度の可能性が存在する
我が国においては、平成16年から肺血栓塞栓症の予防を目的とする弾性ストッキング着用が医科点数収載され、保険が適用される予防法となっており、肺血栓塞栓症の予防法として有効と考えられていること、ガイドラインにおいても弾性ストッキングの着用が推奨されていること、脳神経外科手術を受ける患者における弾性ストッキング着用のみによる予防効果は対照群に対する相対的なリスク減少率が60%であるとする報告もあることからすれば、弾性ストッキングないし弾性包帯を着用することが、肺血栓塞栓症の予防効果をまったく発揮しないとまでは認めることもできず、本件においても同月1日の入院当初からAに弾性ストッキングないし弾性包帯を着用させていた場合にAが同月4日に肺血栓塞栓症を発症せずに死亡しなかった可能性は、なお相当程度存在するものと認められる。
したがって、本件医師らの前記過失がなければ、肺血栓塞栓症を原因とする同月4日の時点でのAの死亡を回避しえた相当程度の可能性が存在すると言うべきであり、本件当時において本件医師らの使用者であった被告は、Aが前記過失により、かかる可能性を侵害されたことによって被った精神的苦痛について、不法行為(使用者責任)にもとづく損害賠償義務を負うと言うべきである。
6 Aの死亡回避の可能性の程度及び慰謝料額
弾性ストッキングの効果については疑問が少なからず呈されているうえ、Aが少なくとも体重90キログラム程度はある高度肥満であったことからすれば、Aの死亡回避の可能性はかなり低いものと評価せざるをえない。
ガイドラインは、いまだ発展途上にあり、今後の研究により改定の余地が少なからずあるとうかがわれる中で、前記のとおり、被告を免責させるまでの事情とはならないものの、本件病院においては左被殻出血の急性期のもとにあったAに対し、下肢の他動運動として、結果的には相応の理学的予防効果を期待できるMMTを頻回に実施していたことも総合考慮すると、前記相当程度の可能性を侵害されたことによりAが被った精神的苦痛に対する慰謝料額は、150万円とするのが相当である。