1 注射における消毒処置に関する注意義務違反の認定方法
本件では、被告の薬剤のバイアル及び生理食塩水の保管過程や注射液の混合過程における滅菌消毒処置が不十分であった過失により、患者らが非結核性抗酸菌に感染したことが認められました。過失の内容(どの過程の滅菌消毒処置が不十分であったのか)を限定せず、一定の幅を持たせた点が特徴的であるといえます。
ここで、民事訴訟においては、医療過誤による損害賠償請求をしている患者側が、医療行為に過失(=注意義務違反)があったことを主張立証しなければなりません。しかしながら、医療は専門的かつ特殊な分野であるため、医療について素人で知識がない患者が、具体的な注意義務違反の内容を詳細に主張立証することは困難です。
この点に関して、最高裁は、麻酔注射に際して消毒が不完全であった過失が問題になった事案において、注射器具、施術者の手指あるいは患者の注射部位のいずれについて消毒が不完全であったのかを明示していなくても、「これらの消毒の不完全は、いずれも、診療行為である麻酔注射に際しての過失とするに足るものであり、かつ、医師の診療行為としての特殊性にかんがみれば、具体的にそのいずれの消毒が不完全であったかを確定しなくても、過失の認定事実として不完全とはいえないと解すべきである」と判示し(最判昭和39年7月28日民集18巻6号1241頁)、注意義務違反となる事実が一定の限度で特定されていれば、過失が認められるとしました。このような認定手法は、「概括的認定」と呼ばれています。
本判決でも、被告の過失としては、薬剤のバイアル及び生理食塩水の保管過程や注射液の混合過程における滅菌消毒処置が不十分であったという限度で特定されていれば足りるとの考え方に立ったものと考えられます。内容が専門的であり、資料が医療機関側に偏在していることが多い医療過誤事件につき、患者側の立証負担を軽減したものといえるでしょう。
2 合意書の清算条項の効力
一般に、損害賠償に関する合意において、解決金を定め、被害者がそれ以外の賠償請求権を放棄したときは、被害者は、合意後にそれ以上の損害が生じたとしても、賠償請求できないのが原則です。
しかしながら、合意締結当時に予期していなかった損害についてまで、合意後一切請求できないとするのは、被害者にとって酷です。最高裁も、「全損害を正確に把握し難い状況のもとにおいて、早急に小額の賠償金をもって満足する旨の示談がされた場合においては、示談によって被害者が放棄した損害賠償請求権は、示談当時予想していた損害についてのもののみと解すべきであって、その当時予想できなかった不測の再手術や後遺症がその後発生した場合その損害についてまで、賠償請求権を放棄した趣旨と解するのは、当事者の合理的意思に合致するものとは言えない。」と判示しているところです(最判昭和43年3月15日民集22巻3号587頁)。
本判決も、上記判決の趣旨に沿い、本件合意書を作成した経緯や合意当時の状況を踏まえた上で、当事者の合理的意思を推認し、本件合意書において和解の対象とされたのは、本件診療所への通院期間中に生じた損害のみであり、合意当時具体的に認識できなかった他院での通院等によって生じる損害についてまで賠償請求権を放棄したものではないと判断しました。合意書の形式的な文言にとらわれることなく、当事者の意思に即した判断をしたものといえるでしょう。