Vol.181 精神科病院における身体拘束と血栓予防措置

―肺血栓塞栓症の予見可能性が否定された事例―

東京地方裁判所判決平成18年8月31日 LLI番号06131513
協力/「医療問題弁護団」 白鳥 秀明弁護士

* 判例の選択は、医師側もしくは患者側の立場を意図したものではなく、中立の立場をとらせていただきます。

事件内容

患者Xは昭和57年(1982年)5月頃から被害的なことを訴えて不登校となり、平成7年(1995年)ごろには、幻聴、独語、空笑が出現し、以降、Y病院へと入院と退院を繰り返した。
Xは平成15年10月14日にY病院を受診して、医療保護入院となり、同日から保護室で身体拘束を実施されて治療を受けていたところ、26日午前1時52分に心肺停止の状態に陥った。Xは午前2時23分に近隣救急病院へと救急搬送され治療を受けたものの午前2時55分頃に死亡した。
司法解剖の結果、Xの死因は下肢静脈血栓症による肺動脈血栓症であった。
そこで、Xの遺族がY病院に対して、Y病院が、①不必要な身体拘束を実施したこと、②肺血栓塞栓症の予防措置を取らなかったこと、③適切な観察を行わなかったこと、④救急搬送の手配が遅れたことを理由とし、損害賠償を求めた。

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判決

(1)Xに対する身体拘束の実施について
Xが妄想、幻覚、興奮、不穏などの急性期の症状を呈していたこと、医療従事者の安全確保、迅速な治療の必要性の観点から、Y病院がXについて、精神保健福祉法基準第四の二「イ」(詳細は後述)に該当すると判断しても不合理ではないとした。

(2)肺血栓塞栓症の予防措置について
当時、東京都立松沢病院にては肺血栓塞栓症の予防チャートが作成されていたことから、仮にそのチャートに基づくのであれば、Xに対しては、早期離床、体位交換、両下肢の運動、弾性ストッキングの使用、フットポンプの使用、抗凝固療法などの予防措置を検討すべきであったことは認めたものの、当時の精神科病院一般における肺血栓塞栓症の予防措置の実施状況および知見の水準からすれば、このような予防措置を実施すべき医療水準は確立しておらず、そのような法的義務があったとまではいえないとした。

(3)適切な観察について
Y病院では30分おきの臨床的観察が行われていたとして、義務違反を認めなかった。

(4)救急搬送の手配が遅れたことについて
搬送時刻自体については認めたものの、その間の対応については、速やかに救急搬送されるように手配すべき義務を怠ったと評価されるべき事実を認めるに足りる証拠がないとした。
以上から、Xの遺族の請求をいずれも棄却した。

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判例に学ぶ

精神科領域における身体拘束およびこれに起因すると思われる肺血栓塞栓症については、近時は、具体的事例の報道もあり、一般にも関心が高まっているテーマかと思われる。本件は、事件自体が15年前のものであり、現在と医学的知見の状況は異なるものの、その判断の基本的な構造となった争点のうち、(1)および(2)については、現在も十分に問題となりうるものである。
そこで、本稿では、これらの争点について、裁判所が採用した判断の枠組みとその根拠を検討していく。

【1】治療上の身体拘束の必要性判断
精神保健及び精神障害者福祉に関する法律は、第36条で「医療又は保護に欠くことのできない限度において」患者に対する身体拘束を認めており、その具体的解釈については、精神保健福祉法第37条第1項の規定に基づき厚生大臣が定める処遇の基準(昭和63年4月8日厚生省告示第130号、以下「本基準」という)第四の二として以下の通り定められている。

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身体的拘束の対象となる患者は、主として次のような場合に該当すると認められる患者であり、身体的拘束以外によい代替方法がない場合において行われるものとする。
ア 自殺企図又は自傷行為が著しく切迫している場合
イ 多動又は不穏が顕著である場合
ウ ア又はイのほか精神障害のために、そのまま放置すれば患者の生命にまで危険が及ぶおそれがある場合
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本件で裁判所は、患者Xの本基準への該当性を検討し、患者Xが前述の急性期症状を呈していたことのほか、ベッドが動くほどの体動を示したこと、点滴の自己抜去を行ったこと、点滴のラインをつかみ怒声を挙げていたことなどから、自傷他害の恐れがあったとして、Y病院が上記のうち「イ」に該当していると判断したことを不合理ではないとした。
ある患者が、本基準に該当するかの判断については、多彩な臨床症状を示す精神疾患の患者に対する専門的な判断に当たり、また、精神科領域における判断の根拠は、検査結果のように、その全てを診療記録に残すことが事実上困難であることなどからすれば、裁判所は医師に比較的広範な裁量を認めていると解釈できる。本件がY病院の判断につき「不合理ではない」という表現を使っていることからも、その判断の一端がうかがえる。

【2】肺血栓塞栓症に対する予防措置

長期臥床や身体拘束状況にある患者に肺血栓塞栓症を発症しやすいことは、現在では、広く知られた医学的知見であるが、本件当時は知見の水準が異なっていた。
裁判所は、都立松沢病院作成の予防チャート(平成16年12月13日改訂)の存在のほか、平成16年の診療報酬点数の改定により肺血栓塞栓症予防管理料が新設されたこと(ただし、当時は精神科病棟は除外)などから、当時も予防措置の必要性を認める知見が一定程度存在していたこと、またそのような予防措置を取ることが「望ましかったいう余地はある」と認めた。しかし、当時このような予防措置を実施していた病院はほとんど存在せず、実施すべきという医療水準は確立していなかったとして、Y病院の義務違反は認めなかった。
裁判所は、当時の医学的知見に沿って、予防措置を実施すべき義務を判断しており、その判断に合理性を認めることができる。
では、現在同様の事件が起こった場合はどうであろうか。 精神科領域では、平成18年には、日本総合病院精神医学会により『静脈血栓塞栓症予防指針』(以下、「予防指針」という)が出版され、リスクレベルの段階的評価とそれに応じた予防策が推奨された。平成19年には日本精神科病院協会が、「精神科領域では肺血栓塞栓症の予防と診断に十分な配慮と実行が必要」との意見を表明し、さらに平成20年には、精神病院では対象外であった肺血栓塞栓症予防管理料が精神病院でも請求可能となった。
松沢病院のガイドラインや前記「予防指針」が、リスク評価項目を明示し、リスクレベルの段階的評価とそれに応じた予防策を具体的かつ明示的に推奨していることからすれば、現在、合理的な理由なくこれらのガイドラインや指針に反し、必要とされる予防措置を実施しなかった場合には、診療契約上の過失が認められる可能性は高い。

【3】まとめ

身体拘束の必要性判断については、医師の裁量が比較的広範に認められ医学的判断が尊重される傾向がある。他方、医学的知見が確立してきた肺血栓塞栓症の予防措置については、理由がなく、推奨されている予防措置を実施しなければ、診療契約上の過失が認められる可能性が高い。