子どもたちを医療被ばくから守りたい 前田 恵理子

医師のキャリアコラム[Challenger]

東大病院22世紀医療センター コンピュータ画像診断学/
予防医学寄付講座 特任助教

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/横井かずえ 撮影/皆木優子

「すみません、こちら側(自身から見て左側)に座っていただけますか。私、右半分が見えていないので」とよく通る声を掛けられた。見るとカバンに小さなヘルプマークが揺れている。東京大学医学部附属病院の前田恵理子特任助教は、類いまれなる精神力で重度の喘息、6回のがんの再発をくぐり抜け、小児心臓CTによる医療放射線被ばく問題で日本をリードし続ける。枯れない情熱の源とは何か、前田氏の半生と共に探った。

世界のスタンダードから日本だけが取り残される

東大病院の前田氏は、循環器や小児のCTを得意とする放射線科医だ。中でも医療被ばくを専門とし、小児心臓CTによる被ばく問題を自身のライフワークに据えている。

放射線科の花形は画像診断であり、放射線被ばくは、専門にするには地味なジャンルに属する。なぜ、前田氏はライフワークに選んだのか。

まず日本の医療被ばくの現状について確認したい。

日本は、人口当たりのCTの台数が極めて多い国である。CTはMRIに比べて長時間の深い鎮静を必要としないので、基本的に小児にとって安全な検査である。

ただ、CT検査は放射線被ばくを伴う。放射線を浴びたときの遺伝子の傷つきやすさ、つまり発がんにつながる確率は小児の方が成人より数倍高いため、小児の放射線検査には細心の注意を払わなくてはならない。

小児CTの中でも心臓CTは特に難しい検査である。対象が心臓全体で数cmと小さく、速い心拍数で動くからだ。技術的限界から、小児心臓CTは10年ほど前まではカテーテル検査に匹敵する10-20ミリシーベルトを超える高線量の検査が普通であった。

しかしここ十数年、「CT検査=医療被ばく」という図式は低線量で鮮明な画像が撮れる機器がどんどん開発されたことで大きく改善されてきた。また、検査中の鎮静リスクがクローズアップされるようになり、無鎮静あるいは軽鎮静でも短時間で撮れるCTの利点が見直されるようになってきた。

CTの画質はある程度放射線量に比例する。線量を下げるあまりに画質が劣化し、目的とする診断ができなくなっては被ばく損で本末転倒だ。

「次第に欧米でも、心臓についてはMRIよりもCTの方が子どもに優しい検査法だと考えられるようになってきました。アジア諸国では、2015年前後にハイエンドなCT機器が初めて入ってからというところが多いのです。世界の先進施設に学び、検査機器の台数も限られているので、あっという間に低線量での撮影が広まっていきました」

しかし、日本は昔からCTを使ってきた歴史がある分、検査機器は最新のものが普及しても、旧態依然の方法で高線量撮像をしているところが少なくない。

「アジア諸国では1ミリシーベルト以下での撮影が普及していますが、2015~2019年にかけて日本から出版された論文を見ると、施設ごとに最も低い0.3ミリシーベルトから最も高い21.3ミリシーベルトまで約70倍の開きがあります」

低線量での撮影に成功するも 周囲からは「信じられない」

前田氏がそれまで不可能だった理論値に近い低線量での撮影に成功し、小児心臓CTの被ばく量を胸部単純写真数枚レベルに低減させたとき、周囲の態度は「信じられない」というものだった。

「当のメーカーですら『CTってこんなに低い線量でも撮れるのですね』という始末でした」

根気強くあちこちで講演などをするうちに、いつしか前田氏が「小児心臓被ばくの第一人者」となった。これらの活動は、日本循環器学会やアジア心臓血管放射線学会の先天性心疾患ガイドライン執筆など、国内外の活動へとつながっていった。

また、2019年には日本小児心臓CTアライアンスを設立し、代表に就任している。

小児喘息には乾布摩擦 誤った医学がまん延した時代

前田氏が小児心臓CTの被ばく問題に情熱を燃やすのは、放射線科医として子どもたちの将来の発がんリスクを減らしたいからに他ならない。

なぜそう願うのか。それは、前田氏自身がかつては入退院を繰り返す小児患者の一人だったから、そして、現在は6回のがんの再発を乗り越えたがんサバイバーだからだ。一児の母となり、子育てをした経験も大きい。

前田氏が、父の仕事でオランダに移り住んだのは小学校5年生のときだった。その後、中学2年生までの3年半、日本とは異なる教育環境で過ごし、エッセーや討論、実験漬けの日々を送ることになる。そのころ喘息を発症。

帰国は中学校2年生の夏。秋には喘息が悪化した。発作で受診したかかりつけ医が処方したのは、気管支拡張剤と去痰剤のみ。いよいよ苦しくなったら使うようにと、1本だけ吸入ステロイドを処方した。

「当時、喘息は発作が起きたときにβ刺激薬などで抑え込む、対症療法でしのぐ病気と考えられていました。乾布摩擦などで体を鍛えることが効果的と信じられ、今では標準治療である吸入ステロイドも、よほどのことがない限り使われなかったのです」

病状は悪化の一途をたどり、14歳11カ月で大発作を起こして入院した。ぎりぎりの年齢で小児科に回されると、日課とされたのが1日3回の痰出しだった。しかし痰出しが気管支への刺激となって、大発作を起こす子どももいた。アスピリン喘息を合併したこともあり、中3の1年間で8回も入院する羽目になった。

今では見られないような治療方法が当たり前とされた時代、喘息で命を落とす患者は毎年6000~7000人に上っていた。

「医者になりたい」 偏差値35からの出発

前田氏は当時より学問的興味から医学部進学を強く望んでいた。

ところが中2で帰国子女編入した中高一貫校では、中学のカリキュラムも終盤に差し掛かっており、高校のカリキュラムに入る中3は入院や受診で休んでばかりだったため、勉強で大きく後れを取ってしまった。

中学3年生のときの校内実力テストでは数学の偏差値は35、200点中12点、760人中730番という惨憺(さんたん)たる結果で、医学部を目指すどころではなかった。高校への内部進学でも、東大や医学部への進学を希望する子が集う理数コースの選抜試験で不合格となってしまう。

前田氏は、ここから猛追撃を開始し、小学校高学年の算数から復習していった。喘息の発作で1~2週間に1回は救急外来を受診。朝までかかってステロイドとネオフィリンを点滴し、救急外来から登校することもしばしばだった。

病棟でも酸素を吸入しながら一心不乱に勉強する様子を見て、養護学校や施設を勧めていた主治医や看護師たちも、次第に応援団となっていった。

鋼の精神で勉強を重ねて約1年半後。高校2年生の実力テストでは理数コースの優等生たちを軒並み抜いて1位を総なめにした。高校3年も入院と受診続きだったが成績面での快進撃は続き、狭き門を突破し東大理Ⅲと慶應大学の医学部に合格した。

臨床実習で無理して 在宅酸素療法を導入

東大病院の内科に転院すると、大量の吸入ステロイド治療などにより発作も改善し、サークル仲間と大学生活を謳歌することもできた。しかし、脳解剖の実習でホルマリンを使ったあたりから再び喘息が増悪、5年生の臨床実習で頑張り過ぎたことで無理がたたり、24時間在宅酸素(HOT)を導入することになってしまった。

在宅酸素を使用したまま実習はできるのか?臨床医にはなれるのか?結婚・出産は?不安に押しつぶされそうになり、さすがの前田氏もふさぎがちになった。だが酸素ボンベを引いて実習へ復帰すると、「患者よりも患者らしい」姿に心の内を打ち明けてくれる患者も多く、自信を回復することができた。

半年休学した後の2度目の6年生。3年生のときから必要性を感じていた解剖実習の課題に取り組むことにした。実習を行う3年生は、臨床へのつながりが見えていないため、後になって一番見ておきたかった構造を見逃してしまうという問題である。

「もったいない」と感じた前田氏は、解剖学の教授に直談判。実習のティーチングアシスタントをしつつ、臨床を知る6年生の今だからこそ分かる、3年生時点で見ておきたかったことをまとめたA3プリント30枚を作成した。これらは製本されて東大の解剖学のテキストとして使われ、2年後には医学書院から『解剖実習室へようこそ』という書籍として出版された。さらには6年間の学業成績とこの出版に対し「東京大学総長賞」を受賞することにもつながった。

検診のための単純写真で 自分自身の肺がんを発見

卒後は「医学の全範囲で学んだことを何一つ無駄にしなくてよい」という理由から、放射線科を選択。当時の教授は「放射線科はハンディキャップを抱えたドクターを受け入れてきた歴史がある」と前田氏を温かく迎え入れた。

初期研修が修了すると「コンピュータ画像診断学/予防医学寄付講座」の特任助教に就任。酸素ボンベを抱えながら海外の学会にも出張し、北米放射線学会(RSNA)では日本人で史上2人目の快挙となる教育展示の最高賞、マグナ・クム・ラウデを受賞した。

体調が落ち着き、在宅酸素から離脱した後の2009年には結婚、2011年には長男を出産。忙しいながらも充実した毎日を送っていた。

2015年、職場検診で前田氏は自らの肺がんを発見した。すぐに手術を受けるも、がんは臓側胸膜の外に出ており、ステージIBの進行がんであると判明した。

胸腔内にがん細胞がこぼれた肺がんは予後が悪く、推定される5年生存率は3割。普通ならば、病の恐怖に打ちのめされてしまうかもしれない。しかし前田氏はこの数字を見ても悲観しなかった。

「3割ならば、私は『勝てる』。これまでの人生で、ピンホールのような小さな穴を何度もくぐり抜けてきたことを思えば、3割は私にとって狭き門でも何でもなかったのです」

しかし現実は厳しく、がんは腺がんから小細胞がんに形質転換して6回再発。行った治療は、開頭を含む4回の手術、3回の化学療法、2回の放射線治療、肺のラジオ波焼灼、分子標的薬と多岐にわたる。5回目の再発では、脳転移とそれに対する手術や放射線治療、さらに放射線治療に伴う放射線脳壊死により、右半盲や失読などの障害を負った。

私の半生は病気との戦国時代 いわば百戦錬磨の武将なのです

幸運だったのは、1回に一つか数個ずつしか再発が起きなかったことだという。その都度オリゴメタスタシス(小数転移)に対する局所治療を繰り返すと、新たながんは出なくなった。

「画像を通じて、オリゴメタスタシスに対する局所治療を繰り返すうち、新たな再発・転移が出なくなる患者さんを多く経験しました。他科の先生に根治性はないと言われることも少なくなかったのですが、自分の経験と勘を信じてキャンサーフリーを勝ち取りました」

特筆すべきは、闘病と小児被ばくの仕事が並行して進んできたことだ。

「むしろ、小児の医療被ばく低減という使命があったからこそ、度重なるがんの再発も乗り越えられたのです。立ち上げたアライアンスで一番やりたいことは、全国調査と全国規模での標準化です。全国の特定機能病院と日本小児総合医療施設協議会の加盟施設に依頼し、小児心臓CTの線量調査を実施する予定です」

その不屈の精神はどこから来るのか。「そうですね、よく聞かれるのですが…」と少し考えてから、自身の半生を病魔と闘う戦国時代になぞらえた。

「私は人生で常に病気と闘ってきました。つまり、戦国時代を生き抜いた百戦錬磨の武将というわけです。今さら病気の一つや二つでくじけたりはしません。もしもこれが30代で初めてがんになりました、というなら人生観が変わることもあるかもしれませんが、私にとってはがんですら『ちょっと一戦交えてやるか』と思えるのです」

ライフワークである小児心臓CTの被ばく問題は、さまざまな病気と闘ってきた前田氏の全ての経験が線になってつながって生まれたものだ。

「私自身は、医療放射線のせいでがんになったとは思っていません。しかし病気で頑張る子どもたちが、将来さらなるがんリスクを負うことは、放射線科医としてできる限り避けたい。引き続き、医療被ばくに関する研鑽を積み、小児を中心とするCT被ばくの正当化・最適化・標準化に尽力したいと思います」

2019年、半生をまとめた自伝『Passion~受難を情熱に変えて』(医学と看護社)を出版すると、反響は大きく、一般紙をはじめとする多くのメディアから取材を受けている。がんとの闘いに一つの区切りがついた今、前田氏の次なる展望を聞いた。

「私は放射線医学と関連の深い病気も含めて、多くを乗り越えてきました。当事者の目線で、医療と患者の力になる発信を続けていきたいと思います」

前田氏は、日本医師会の推薦で愛媛県西予市より「第9回おイネ賞全国奨励賞」を受賞した。小児心臓CT被ばくの仕事や、多くの若手・大学院生の指導をしてきたことが評価されての受賞である。

楠本イネはシーボルトの娘で、2歳のときに父が日本から国外追放になった後、西予に渡ってシーボルト門下らに学んで日本初の女性産婦人科医として活躍した。困難な道を経ながらも人並みならぬ努力で医師として大成したおイネさんには、現代の女性医師たちも勇気づけられる。

「いつの時代も、ダイバーシティーはイノベーションの源泉でした。医師も患者も多様化する現代、今後は子育て経験と患者経験を生かし、女性やハンディキャップのある医師・医学生の支援、患者さんのキャリア支援にも取り組んでいきたいと思います」

放射線科医である前田氏だからこそできる、実体験を基にした発信や患者サポートでどのように世の中に貢献できるのか―情熱の火は消えることなく、病を経てより一層熱く燃え盛っている。

P R O F I L E
プロフィール写真

東大病院22世紀医療センター コンピュータ画像診断学/予防医学寄付講座 特任助教
前田 恵理子/まえだ・えりこ

2003 東京大学 医学部医学科 卒業
2005 東京大学医学部附属病院 22世紀医療センター
コンピュータ画像診断学/予防医学寄付講座 特任助教
2012 東京大学大学院医学系研究科にて学位(医学博士)取得

受賞歴

2004 東京大学総長賞
2006・2008 北米放射線学会教育展示 最高賞(Magna Cum Laude)
2012・2014 日本医学放射線学会 JJR 最多引用賞
2021 西予市おイネ賞 全国奨励賞(日本医師会推薦)
座右の銘: 笑門来福
愛読書: 『平静の心 —オスラー博士講演集』
尊敬する人: 植松努さん
『下町ロケット』(池井戸潤/著)のモデルとなった人物
影響を受けた人: 廣川信隆先生(解剖学教室の前教授)
好きな芸能人: タモリさん
マイブーム: サイフォンコーヒー
マイルール: 悩んだら直感を信じる
宝物: 家族

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2022年1月号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。