Yは、大阪府泉佐野市で医院(診療科目:外科・整形外科・胃腸科・内科・理学療法科)を開設している医師であるが、同医院は乳癌研究会(後の日本乳癌学会)の正会員であり、その診療科目に乳腺特殊外来を併記して乳ガンの手術を手がけていた。Y自身も乳ガンか否かの限界事例について乳房温存療法を1例実施した経験があったが放射線照射は行っていない。
X(昭和23年生・既婚女性)は、平成3年1月28日以降、Yの診察を受け、手術生検等の結果、同年2月14日までに乳ガンと診断された。
Yは、Xの乳ガンについては胸筋温存乳房切除術適応と判断し、平成3年2月16日、Xに対し、入院して手術する必要があること・手術生検を行ったので手術は早く実施したほうがよく手術日は同月28日が都合が良いこと・乳房を残す方法も行われているがこの方法については現在までに正確にはわかっておらず放射線で黒くなったり再手術を行わなければならないこともあることを説明した。そして、同月20日には、Xに対し、乳房を全部切除するが、筋肉を残す旨説明した。
一方、Xは、平成3年2月15日、乳房を失うのが当然とされてきた乳ガンの治療が、乳房を可能な限り残す方向へと変わってきたとの新聞の紹介記事に接した。同記事は乳房温存療法に触れていた。同月26日、XはYの医院に入院しYの診察を受けた際に、Xの心情をつづった手紙(現存していないが、乳ガンと診断され生命の希求と乳房切除のはざまにあって揺れ動く女性の心情の機微を書きつづったもの)をYに交付した。
平成3年2月28日、YはXに対し、右側乳房を全部切除する手術(以下「本件手術」という)を実施した。
Xの乳ガンは、腫瘤とその周囲の乳房の一部のみを取る乳房温存療法に適しており、Xも乳房を残す手術を希望していたのに、Yは同療法及び手術の内容について十分説明しないままXの意思に反して乳房切除術を行ったとして、XはYに対して診療契約上の債務不履行または不法行為にもとづく損害賠償請求訴訟を提起した(乳房温存療法の実施義務違反・実施すべき医療機関への転医義務違反・説明義務違反等、請求額約1200万円)。
本件手術当時の乳房温存療法の実施状況・評価
I 乳房温存療法は、それが奏功した場合には概ね患者の満足を得ており、同療法は、外科的侵襲が少ないため、術後の患側上肢の運動障害が少ないことのほか、美容的側面や患者の精神的側面及び生活の質の観点では、医療水準上確立した療法である乳房切除術に比べて優れていると評価できるものである。
II 欧米では、乳房温存療法は乳房切除術に比べて、乳がんの再発率、生存率の点で劣っていないか、むしろ優れていることが確認されていた。
III 欧米に比べ日本では乳房温存療法の普及が遅れており乳房切除術が主流であった。平成4年7月にまとめられた乳癌研究会の調査によれば、その会員である236施設で行われた乳がん手術中乳房温存療法を実施した割合は平成元年度が6.5%、平成2年度が10.2%、平成3年度が12.7%であり、また、平成5年1月に公表された別の団体による調査によれば、平成3年に全国の129施設で乳房温存療法が実施され、その中には、大阪府下では、大阪府立成人病センターの外7病院が含まれていた。
IV 日本で実施された乳房温存療法の報告でも再発例はなく、同療法を実施した医師の間では同療法が積極的に評価されていた。
V 平成元年2月に第49回乳癌研究会で「乳房温存術と放射線治療」というテーマについてンポジウムが行われ、同年7月に第50回乳癌研究会で乳房温存療法の術式がテーマの1つとして採り上げられた。
VI 平成元年4月、乳房温存療法について安全性、有効性を立証し、その統一的基準を作成するために、厚生省の助成により、「乳がんの乳房温存療法の検討」班(いわゆる霞班)が設置され、霞班は、同年10月には「乳房温存療法実施要綱」を暫定的に策定し、大阪府立成人病センターを含む10施設を参加させて臨床的研究を開始した。
VII 本件手術当時、霞班による臨床的研究成果も未発表であり、日本における同療法の実施報告例は少なく、経過観察期間も短期間であって、同療法の術式も未確立であった。同療法によるがん細胞残存率や局所再発のおそれの問題について確定的な結論も出ておらず、同療法を実施してもリンパ節に転移していた場合等には他の術式を再度実施する必要があった。同療法の実施に伴って放射線照射を行う必要があるところ、その必要な放射線照射の程度、放射線照射による障害の有無についても研究途上にあった。
同療法の実施にはなお解決を要する問題点も多く、同療法が専門医の間でも医療水準として確立するには臨床的結果の蓄積を待たねばならない状況にあった。
本件手術時のXの状態及びYの認識
Xの乳ガン((1)充実腺管癌《髄様腺管癌》で浸潤型・(2)しこりの大きさは1cm×1cmで病期はI期・(3)しこりの位置は外上方四半分・(4)腋窩リンパ節に触れないものであることが判明していた)は、霞班の定めた「乳房温存療法実施要綱」の適応基準を充たすばかりでなく、本件手術当時乳房温存療法を実施していたほとんどすべての医療機関の適応基準を充たすものであった。Yは、本件手術当時、乳房温存療法について、同療法を実施している医療機関も少なくなく、相当数の実施例があり、同療法を実施した医師の間では積極的な評価もされていること・Xの乳がんが上記霞班の定めた「乳房温存療法実施要綱」の適応基準を充た充たし、乳房温存療法の適応可能性があること及び乳房温存療法を実施していた医療機関を知っていた。