1 争点
本件で争点となったのは、(1)午後8時35分または午後9時の時点で帝王切開術を決定すべき義務を怠った過失があるか、(2)午後8時35分または午後9時の時点で帝王切開術の準備をすべき義務を怠った過失があるか、(3)帝王切開術の決定後速やかに帝王切開術を施行してAを娩出させる義務を怠った過失があるか、(4)過失とAの後遺障害との間に因果関係があるか、である。
各争点は相互に関連している。
午後8時35分または午後9時の時点で緊急帝王切開の「決定」をしていれば(争点(1))、本件病院では緊急帝王切開決定から児の娩出まで約1時間20分を要するとしても、午後9時55分ころ、または午後10時20分ころには児を娩出できたであろうということになり、Aに重大な後遺症が残らなかったであろうと言えそうである(争点(4))。午後8時35分または午後9時の時点で緊急帝王切開の「決定」する義務はなくても、いざというときに備えて、帝王切開の「準備」を始めていれば(争点(2))、9時45分ころに帝王切開の決定した後、速やかに児を娩出することができ(争点(3))、やはりAに重大な後遺症が残らなかったであろうと言えそうである(争点(4))。午後8時35分または午後9時の時点で帝王切開の「準備」をする義務もない、ということになれば担当医Gが午後9時45分ころに帝王切開の「決定」をしてからその「準備」にとりかかったことは是認される。あとは児を娩出するまでに1時間16分を要したことの適否が、緊急帝王切開決定から児の娩出まで平均約1時間20分を要するという本件病院の人的体制との関係で問題となりえよう(争点(3))。
2 裁判所の判断
裁判所は、前記(1)、(2)、(3)の各争点について、概要以下のように判断し、病院側の過失を認めた。そして、病院医師がより早期に帝王切開術を施行して原告Aを娩出していれば、Aに低酸素性虚血性脳症を発生させず、Aの負った後遺障害を発生させなかった高度の蓋然性があるとして、(4)過失とAの後遺障害との間の因果関係を認め、病院に対し、Aに1億3708万円、Aの両親に各275万円の支払いを命じた。
[1] 午後8時35分または午後9時の時点で帝王切開術を決定すべき義務を怠った過失があるか
午後8時35分に出現した徐脈は、早発性徐脈であり、その出現のみでは胎児が低酸素状態等に陥っているものとは判断されない。仮にこれが変動一過性徐脈であるとしても、1回出現したのみでは胎児の低酸素状態が悪化していると判断されない。5bpm以下の基線細変動の減少があるが、継続時間が数分間及び約10分間程度のものであり、これだけでは臨床上有意な所見とまでは言えない。したがって、午後8時35分の時点では、胎児が危険な状態であると認めることはできず、帝王切開を実施すべき義務があると言うことはできない。
午後9時ころ出現した徐脈は遅発一過性徐脈としては分娩中に初めて生じたものであり、ただちに帝王切開術を実施すべき義務があると言うことはできない。
[2] 午後8時35分または午後9時の時点で帝王切開術の準備をすべき義務を怠った過失があるか
午後8時35分の時点では、前記のとおり臨床上顕著な所見とまでは言えないから、この時点では帝王切開術の準備をすべき義務があると言うことはできない。午後9時に生じた徐脈は遅発一過性徐脈であることが高度に疑われる。午後9時までの経過を考慮すると、児の状態は予断を許さないものと言える。そして本件病院の人的体制では、夜間に緊急帝王切開術を施行する場合に帝王切開術決定から児の娩出までは平均1時間20分を要し本件病院医師はこのことを了知していた。これらのことからすると担当医Gには、午後9時ころの時点において今後の急速遂娩の可能性を予測し、胎児心拍数図を経過観察すること等により胎児が危険な状態にあると判断される際には速やかに帝王切開術に着手できるように、ただちにその準備に着手する義務があるのに、これを怠った過失がある。
[3] 帝王切開術の決定後速やかに帝王切開術を施行してAを娩出させる義務を怠った過失があるか
午後9時10分以後の高度頻脈と基線細変動の減少が約30分間継続した後の午後9時40時に高度遅発一過性徐脈が出現した時点では、一刻も早く緊急に帝王切開術を施行して児を娩出させることが必要であることは明らかである。本件病院は午後9時45分ころ緊急帝王切開術を行うことを決定してから速やかに帝王切開術を施行しAを娩出させる義務がある。
ところが、本件病院は、午後9時45分ころの緊急帝王切開の決定後から初めて帝王切開の準備に着手したため、夜間に小児科医、麻酔科医、産婦人科医、手術室看護師を呼び出すのに時間を要し、午後11時1分ころにAを娩出させるまでに約1時間16分を要した。
これは遅きに失したものと言うほかなく、前記の緊急帝王切開術決定後に速やかに帝王切開術を施行してAを娩出させる義務に違反する過失があると言うべきである。本件病院の帝王切開決定から児の娩出までに要する平均時間が1時間20分であり、一般病院においても1時間以内に行うことに大きな制約があるとしても、それは医療慣行にすぎず、このような医療慣行に従ったからといって、本件病院の過失が否定されると言うことはできない。麻酔科医や手術室看護師が常駐していない本件病院の態勢のもとでも、今後の急速遂娩の可能性を予測した午後9時の時点で麻酔科医等に連絡をとるなどして胎児が危険な状態にあると判断される際には速やかに帝王切開術に着手できるようただちにその準備をしておけば、帝王切開術の決定から胎児娩出まで 1時間16分も要することなく速やかに行うことが十分可能であった。