【1】 低酸素性脳障害の原因論と脳画像
分娩時脳障害における低酸素原因としての「胎便原因論」「臍帯圧迫論」は医療訴訟において散見される原因論だが、前記(5)のとおり、アメリカ産婦人科医会、アメリカ小児科学会編「脳性麻痺と新生児脳症」(坂元正一監訳メディカルビュー社)においても、本判決当時、 それぞれに動物実験段階ないしin vitro な研究段階にないとされていること、これらの低酸素脳障害であればprofound asphyxia な脳ダメージ画像であるところ、本件患児の頭部画像はpartial asphyxiaな所見であることを患者側で小児頭部画像読影の専門家証人により立証したため、病院側の原因論が否定されたと考える。なお、かような根拠による否定は、他の訴訟(名古屋地裁平成21年6月24日判例時報2069号84頁)でも採用されている。
【2】 モニタリングの読影と評価
モニタリング読影における医療側の「分娩前脳損傷パターン」なるものの主張も本訴訟の特徴であったが、前記(3)のとおり、アメリカ文献上の同パターンは、多く短期細変動の減弱ないし欠如を伴うことが指摘されているところで、本件病院側専門家証人医師らも、本件患児のモニタリングに短期細変動の欠如を指摘していた。これに対し患者側で、使用されたモニタリング機器ではそもそも短期細変動を記録しない旨を製造メーカー担当者の陳述書を得てかような指摘の間違いを立証したことで、判決で患者側専門家証人医師の見解に沿うモニタリング評価が採用された。
最近ではモニタリングの波形につき細変動かノイズかといった点も訴訟上の論争点となった東京地裁での和解事例などもあると聞くが、本件訴訟にしても、モニタリング読影と評価が争われる分娩時脳性麻痺事案での、産科臨床現場における到達点の不明瞭さが浮き彫りになった。
【3】 判決のスタンスと分娩時脳性麻痺事例の解決
筆者は本件訴訟の患者側代理人であったが、本判決が、基本的に患者側の主張を採用しつつ、結果に対し娩出の遅れがどれほど寄与しているか、その割合に応じてさしたる根拠を述べずに「請求金額の6割」という判断をした(これを法的な用語で「割合的因果関係論」というが)このようなスタンスを評価している。というのは、結局のところ、前項に述べたとおり、分娩時低酸素障害の機序や経過については、どのような産科医も医学的に厳密な指摘はなし得ないのであり、モニタリングの読影と評価についてさえ誤解に基づいていることが多いと考えられ、実際、分娩時脳性麻痺事例の割合を全分娩5000件に1件としても、産科医自身の臨床経験として稀な事例なのである。という要素に鑑みるなら、このような産科紛争事案について割合的因果関係論による解決は適していると思うからである。ただし、このようなスタンスでの判決例は少なく、残念である。
本件は病院側が当初より何ら歩み寄りの姿勢を見せなかったため、訴訟提起を余儀なくされたが、かような歩み寄りの完全拒絶は開設運営者である市の意向も反映されたのではないかと推測される。本判決後病院側が控訴し控訴審で一審判決に近い額で和解した解決まで当初より5年かかり、病院関係者の精神的負担もそうであろうが、医学に関して全くのしろうと集団である患児家族や代理人らが立証責任の課せられた医療訴訟を闘わざるを得ない疲弊は甚だしく、出廷いただいた専門家証人医師の方々、あるいは水面下で協力いただいた全国各地の多くの医師らには感謝に堪えない。とりわけ2009年より前の分娩時脳性麻痺事案では産科医療補償制度という第三者的サポート制度もなく、現在でも全国で多くの紛争・訴訟が余儀なくされているが、いずれにせよ、解明できない領域であることをふまえつつ、病院側も、医学的合理性から外れない主張と根拠をしていただきたいと思う次第である。