Vol.113 病状及び生検に関する情報提供と自己決定権

~主治医の注意義務(喉頭癌を疑い、速やかに生検・治療を実施すべき義務) 違反の後、喉頭を全摘出して発声機能を喪失した事例~

-東京地方裁判所判決・平成23年3月23日-
協力:「医療問題弁護団」宇都宮隆展弁護士

* 判例の選択は、医師側もしくは患者側の立場を意図したものではなく、中立の立場をとらせていただきます。

事件内容

患者は、平成14年7月(当時76歳)に喉に違和感を覚え、声がかすれるようになったことから、前医を受診し、同年11月に喉頭ファイバースコープ検査による生検が行われた結果、慢性喉頭炎であると診断された。
その後、患者は、平成15年3月から平成16年6月まで月に1回程度、被告(大学病院耳鼻咽喉科)を受診し、嗄声及び右仮声帯の腫脹が確認されるも経過観察となった。もっとも、同年10月に顕微鏡下喉頭腫瘍摘出術等を受け、その際の生検から、右仮声帯腫瘍について中分化.低分化の扁平上皮癌であり、喉頭癌の病態としてはT2(II期)と診断された。そこで、平成17年1月にかけて放射線治療が行われ、治癒に近い状態(寛解状態を含む)あるいは病変消失と判定された。
しかし、平成18年7月には、患者は、後医において、右声帯について固定T3以上であると診断された後、喉頭全摘手術を受け、音声機能を喪失するに至った。
なお、患者は、平成22年2月に喉頭癌により死亡している。

関連情報 医療過誤判例集はDOCTOR‘S MAGAZINEで毎月連載中

判決

1 注意義務違反について

原告は、(1)初診時から一貫して嗄声と右仮声帯の腫脹が生じていたこと、(2)60歳以上の男性患者で2週間以上嗄声が持続している場合は、喉頭癌を疑う必要があるとされていること、(3)間接喉頭鏡検査では、声門上部に隆起性病変がみられた場合、癌を鑑別診断の一つとして考えるべきといわれていること、(4)喉頭癌の発生頻度が高いとされる高年齢層の男性に含まれていることなどから、被告は、遅くとも、平成15年5月29日以降は、速やかに局所麻酔下生検(喉頭ファイバースコープ検査による生検)あるいは全身麻酔下生検(喉頭直達鏡検査による生検)を実施し、喉頭癌の確定診断をした上で、速やかに放射線治療を開始すべき義務を負っていたと主張した。
被告は、初診時から、(1)前医によるファイバースコープでの生検では原因部分の組織が含まれない可能性が高いこと、(2)入院の上、全身麻酔をかけて、直達喉頭鏡で直接仮声帯や声帯を観察すべきこと、(3)早い時期に検査を受けるのが適切であること、(4)全身麻酔で行うため検査中の痛みや苦しさはないが、1週間程度の入院が必要であることなどの説明をしていたが、患者の方から、忙しいので入院できないなどの理由により、生検を拒絶されたものである旨を主張した。
裁判所は、生検に関する何らかの記載をすることは容易であるにもかかわらず、生検の必要性や、原告の不同意などを窺わせる記載すら全くされていないことなどから、上記の注意義務違反があると判示した。

2 因果関係について

原告は、(1)平成15年3月の腫瘍はT1(I期)に該当し、同年5月も同じと考えられること、(2)同年5月に実施すべき治療法は、放射線療法であること、(3)T1(I期)の喉頭癌の予後は非常に良好であること、(4)喉頭癌が再発した原因は、初診時に右仮声帯にT1(I期)の扁平上皮癌が存在していたにもかかわらず、平成16年10月まで約1年8か月も治療が行われなかったため、 T2(II期)となってしまったことにあることなどから、上記注意義務違反がなければ、T1(I期)の段階で放射線治療が実施され、喉頭癌の再発を生ずることなく治癒できたと主張した。
被告は、(1)平成15年5月29日までの時期の病期について、T1と考えるのが合理的とはいえないこと、(2)放射線治療計画のガイドライン上、局所再発率についてはT1例で70.80%、 T2例で60.70%とされており、当時T1であったとしても、相違は10%以下(もしくは変わらない)であったことなどから、因果関係は否定される旨を主張した。
裁判所は、(1)担当医師が、平成15年5月29日までに癌の可能性があり、生命に危険が及ぶ場合があることや生検の必要性を十分に説明していれば、原告がこれに近接した時期に生検を受けていたものと認められるが、(2)原告の嗄声は長期間にわたり持続し、その後喉頭癌(声門上癌)と診断されていることに照らせば、喉頭癌(声門上癌)が声帯に浸潤していた可能性を否定することができないなどの理由で、平成15年5月29日に近接した時期に右仮声帯腫脹について生検を受け、喉頭癌(声門上癌)の確定診断をし、速やかに放射線治療を開始したとしても、喉頭癌(声門上癌)の再発・転移を避け、喉頭全摘出を回避することができたことについて高度の蓋然性があり、あるいは相当程度の可能性があったとは認めることができないと判示した。

3 最終的な結論について

他方で、裁判所は、注意義務違反と原告の自己決定権侵害との間における因果関係についてはこれを肯定し、一定の慰謝料請求について認める判決を下した。

判例に学ぶ

本件で正面から争点とされたのは、上記のとおり、(1)検査及び治療開始義務違反の存否、(2)上記義務違反と喉頭癌(声門上癌)の再発・転移や喉頭全摘出の回避との因果関係の存否であるところ、裁判所は、(1)については肯定しています。
通常、因果関係が肯定されるためには、ある原因がある結果を招いたといえるだけの「高度の蓋然性」が求められます。ここでいう「高度の蓋然性」とは、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうる程度、すなわち十中八九間違いないという程度であるとされています。
それだけに、医療訴訟において「高度の蓋然性」を証明することは、一般的にはかなり困難な作業となります。しかし、明らかに過失行為が存在し、生命侵害や重篤な後遺障害の結果が発生している場合にまで、常に因果関係を救済の条件とすると、必ずしも適切な解決策が得られない場合もあります。
そこで、少なくとも生命侵害や重篤な後遺障害の結果が発生している場合は、それを証明の対象とするのではなく、「結果発生時点に生存していたり、重篤な後遺障害が発生していないという相当程度の可能性」を証明の対象とすることによって、証明の負担を軽減することが認められています。もっとも、この場合には認められる賠償額も比較的少額となります。
ただ、本件の裁判所は、(2)について、高度の蓋然性どころか相当程度の可能性すら否定しています。
そこで、いよいよ原告には何の請求も認められないこととなりそうですが、ここで裁判所は、検査に先立つ説明の要素に着目することによって、「適切にその病状及び生検に関する情報を提供され、これに基づいて生検を受けるか否かを真摯に選択・判断する権利(いわゆる自己決定権)」に基づいて、比較的少額の慰謝料請求を認めるという構成をとっています。
ここで認められた金額は、おそらく「相当程度の可能性」を肯定した場合とほぼ同じ程度であると考えられます。また、本件の事実関係の下では、「相当程度の可能性」を肯定することもできたように思われます。
それにもかかわらず、裁判所が「相当程度の可能性」を用いた法的構成によらずに、自己決定権を用いた法的構成によったのは、言語機能を廃したという後遺障害が必ずしも重篤なものと言い切れないと判断したためかもしれません。
いずれにしても、本件は、因果関係について「相当程度の可能性」のレベルさえ否定されたとしても、なお一定の請求が認められる可能性があることを示した裁判例として、実務上参考になるものといえます。