Vol.155 静脈血栓塞栓症発症の予防措置に関する注意義務

―静脈血栓塞栓症発症の予防のため弾性ストッキング法または間欠的空気圧迫法を実施すべき注意義務の違反が認められた事例―

東京地裁平成23年12月9日判例タイムズ1412号241頁
協力「医療問題弁護団」五十嵐 実保子弁護士

* 判例の選択は、医師側もしくは患者側の立場を意図したものではなく、中立の立場をとらせていただきます。

事件内容

患者X(1933年生まれの女性)は、2006年11月7日、Y病院に入院した。Y病院のA医師は、同月8日、子宮脱の治療のため仙棘靱帯子宮頸部固定術、TOTスリング術等の手術(以下、本件手術)を実施することにつきXの同意を得、この際、Xに対し、早期離床や積極的運動を指導した。他方A医師は、Y病院において患者に交付することとされていた「静脈血栓塞栓症の予防に関する説明書」(以下、本件説明書)をXに交付せず、静脈血栓塞栓症発症の予防措置を講ずることにつきXの同意も得なかった。
A医師は同月9日、本件手術を実施した(所要時間は約1時間10分)が、その際、弾性ストッキング法または間欠的空気圧迫法の実施、ヘパリンの投与等の措置は講じなかった。Xは、本件手術の2日後に肺血栓塞栓症による低血圧ショック及び意識障害を発症し、その後ヘパリン投与等の措置が講じられるも、後遺障害(低酸素脳症を原因とする遷延性意識障害)が残った。本件は、XらがY病院に対し、Xが肺血栓塞栓症を発症し後遺障害が残ったのは、Y病院の医師らの注意義務違反によるものであるなどと主張し、1億5000万円を超える損害賠償等を求めた事案である。

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判決

1 注意義務違反
被告は、予防ガイドライン等[肺血栓塞栓症/深部静脈血栓症(静脈血栓塞栓症)予防ガイドライン作成委員会が2004年6月に公表した「肺血栓塞栓症/深部静脈血栓症(静脈血栓塞栓症)予防ガイドライン」及び日本循環器学会等の合同研究班が2004年6月に公表した「肺血栓塞栓症および深部静脈血栓症の診断・治療・予防に関するガイドライン」]は一つの指針にすぎず、肺血栓塞栓症発症の予防は最終的には担当医の判断と責任の下に実施されるべきである、A医師が早期離床や積極的運動を指導したことは、医師としての合理的裁量の範囲内であるし、本件において、弾性ストッキング法または間欠的空気 圧迫法を実施することは却って不適切である旨の主張もする。
確かに、個々の患者に対していかなる医療行為を行うかは、患者と十分に協議した上、最終的には担当医の責任において決定すべきものであって、医療ガイドラインはその決定を支援するための指針にすぎず、担当医の医療行為を制限するものでも、当該ガイドラインの推奨する医療行為を実施することを医療従事者に義務付けるものでもない。
しかしながら、証拠及び弁論の全趣旨によれば、予防ガイドラインは、日本血栓止血学会等の10学会または研究会が参加して作成され、また、治療ガイドラインも、日本循環器学会等の7学会が参加した合同研究班により作成されたものである。その公表後、Y病院を含む多数の医療機関等において、現に予防ガイドライン等に準拠した静脈血栓塞栓症発症の予防措置が講じられていることが認められるのであって、このような予防ガイドライン等の作成経緯、その実施状況等に鑑みると、少なくとも本件において予防ガイドライン等に従った医療行為が実施されなかった場合には、特段の合理的理由があると認められない限り、これは医師としての合理的裁量の範囲を逸脱するものというべきである。
被告は、①本件手術による侵襲の範囲は限定的で、手術に要した時間も1時間余りであること、②Xは、全身麻酔から覚醒した後、直ちに下肢を動かすことができたこと、③本件手術は高位砕石位によるもので、術中、弾性ストッキング法または間欠的空気圧迫法を実施して下肢を圧迫するとコンパートメント症候群や神経麻痺の発症の危険性が高まることなどから、予防ガイドライン等に従った予防措置を講じなかったことにつき合理的な理由がある旨の主張もする。しかし、そもそも予防ガイドラインは、侵襲の範囲が限定的である場合でも、手術に要する時間が30分を超えるときは、そのリスクレベルを中リスクと位置付け、静脈血栓塞栓症の予防措置として、早期離床及び積極的運動の指導ではなく、弾性ストッキング法または間欠的空気圧迫法の 実施を推奨していること、これらの理学的予防法については合併症を発症する可能性が比較的少ないこと、そして、A医師がXに対し、本件説明書を交付することも、静脈血栓塞栓症発症の予防措置を講ずることについて同意を得ることもせず、どのような予防措置を講ずるかについて同原告と十分な協議をしたわけではないことからすると、本件において上記合理的理由があったと認めるのは困難というほかない。
A医師は、Xのリスクレベルは予防ガイドライン等にいう「中リスク」と評価され、この場合、弾性ストッキング法または間欠的空気圧迫法の実施が推奨されるにもかかわらず、早期離床や積極的運動を指導するほかは、静脈血栓塞栓症発症の予防措置を講じず、弾性ストッキング法も間欠的空気圧迫法も実施しなかったのであるから、上記の医療ガイドラインの一般的な性質を考慮しても、同医師には、静脈血栓塞栓症発症の予防に関し注意義務違反があるというべきである。

2 因果関係、損害
Xの肺血栓塞栓症の塞栓子となった血栓の形成時期及び形成部位は不明といわざるを得ないところであり、弾性ストッキング法または間欠的空気圧迫法が実施されていれば、肺血栓塞栓症は発症しなかったという高度の蓋然性があるとまで認めることはできない。もっとも、弾性ストッキング法または間欠的空気圧迫法が実施されていれば、肺血栓塞栓症が発症せず、Xに後遺障害が残らなかった相当程度の可能性があると認められ、XはA医師の注意義務違反により、上記可能性を侵害されたというべきである。
Xは、これにより相応の精神的苦痛を被ったものと認められるところ、上記侵害の態様及びその程度、Xの年齢、後遺障害の程度等、一切の事情を総合考慮すると、Xに対する慰謝料は800万円と認めるのが相当である。

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判例に学ぶ

診療契約上の注意義務違反(過失)は、医療水準を基準に判断されます。ガイドラインは、この医療水準を当然に画するものではなく、ガイドラインに従った医療行為を実施しなかったからといって直ちに注意義務違反が認められるということはありません。
しかし、ガイドラインは、医療水準を認定するための重要な資料の一つとなり得ます。今回のケースでも、裁判所は、ガイドラインの作成者や作成経緯、実施状況等から、「少なくとも本件においては、ガイドラインに従った医療行為が実施されなかったことにつき特段の合理的理由が認められない限り、医師としての合理的裁量の範囲を逸脱する」として、ガイドラインを根拠に医療水準を認定しました。その上で、裁判所は、具体的事実関係に基づき、本件では特段の合理的理由はないとして、A医師の注意義務違反を認めました。本件は、「Y病院において患者に交付することとされていた説明書を交付しなかった」というやや特殊な事情はありますが、ガイドラインに従った医療行為を実施しないことの特段の合理的理由を具体的に検討し、否定したケースとして参考になります。問題となるガイドラインの作成者や作成経緯、実施状況等にもよりますが、ガイドラインに従わずに悪しき結果が生じた場合、訴訟では医療者側にその合理的理由を主張立証するよう求められることがありますので、ガイドラインに従わないときはこの点にも留意して慎重に判断していただきたいと思います。