大学医局に属さないから他病院から依頼された
ESDをできる人がまだ少ない時期に腕を徹底的に磨き、大圃氏は内視鏡治療の第一人者として全国の病院からESDの依頼を受けるまでになった。しかし医師としての道は順風満帆ではなかった。
どの大学の医局にも所属しなかったため、特殊なキャリアを歩むことになったのだ。今でこそ医局に所属しない医師は珍しくなくなっているが、大圃氏が卒業した1998年当時は、卒業すると医局に所属するのが当たり前だった。
大圃氏は「内視鏡の技術を身に付けたい」と研修先の病院に残ることを選択したが、与えられた身分は「非常勤の嘱託」というかなり不安定な立場だった。もともと存在しないポストのため、当初は無給。月に2万円ほどの謝礼が支払われるだけの待遇が1年半続いた。アルバイトも月2回の救急病院での当直の他は、ほとんどしなかった。気付いたら10年目になるまで、非常勤待遇のままだった。
それは、アルバイトの時間も惜しんで勉強がしたかったからだ。医師となり最初の数年は、どのような医師になるか自分のスタンスを決める重要な時期。
たとえ収入が無くとも、その大事な時期に時間をかけて身に付けた技術や知識は自分の財産として残ると考えた。あの時に頑張っておいて本当によかったと大圃氏はふり返る。
無給で働いていることは同じ医師の仕事をしている親に知らせず、一切頼らなかった。周りの医師からの「辞めた方がいい」「まともな医者にはなれない」という忠告も受けた。
しかし、そういう立場だからこそできたことも多かった。他の病院からESDをやってほしいと依頼された時や国内外からいろいろな招聘を受けた時、非常勤だったからこそ自由に出向くことができた。どんな環境でも本人の考え方次第でポジティブに変えることはできるというのが、大圃氏の持論だ。
また、同じ科に年配の常勤医と研修医しかいなかったため、フットワークが軽い若手の医師として、多くの治療を一手に任せてもらえたことも大きかった。
病院に来る症例数ではなく、自分の経験した症例数で手技の習得に差が出る。確かに、自分と同じ年齢や立場の医師が多くいる環境では安心できる。しかし、それでは腕が上がらない。
「有名な指導医がいて、最新の機器がそろっている環境でなければ一流になれない、という考え方とは違うと思います。環境はとらえ方ひとつで変わる。医局というシステムから外れて自分のやりたいことを独自に突き詰めていく方法が、私には合っていたのです」
周囲の状況にとらわれずに、懸命に治療にまい進するうちに、周りが変わっていった。