一番近くで神の手を見続け 一挙手一投足を吸収してきた
「手術は駄目だな」
医師になって6年目の1996年。旭川医科大学の医局からの派遣で旭川赤十字病院(以降、旭川日赤)の脳神経外科に赴任した瀧澤克己氏は、脳動脈瘤手術の第一人者であり、「神の手」を持つとして広く知られていた上山博康氏(現・社会医療法人禎心会脳疾患研究所所長)からそう言われたことがある。指導は厳しく、緊急手術があれば深夜であっても医師全員が集まる。手術室は各人が腕を磨こうと常に医師たちであふれていた。
当初は手術のたびに手が震えていたという瀧澤氏。手の震えは血管縫合に致命的だった。
「僕の手術によって悪くなってしまうのでは、という恐怖心から手が震えていました。自分の腕に自信がないんですよね。だから『手術は駄目だな』と言われても認めざるを得ませんでした。体力だけは自信があったので、それを頼りに何とかついていきました」
瀧澤氏はカルテや診断書の作成など事務的な作業を進んで行った。手術室よりも病棟によく足を運び、術前・術後の患者を診た。時に「なぜ手術室にいないんだ」と言われながらも、他の医師がやりたがらない仕事を率先して行う姿を上山氏はしっかり見ていた。
手術が何とかできるようになったのは赴任して1年半たったころ。上山氏が出張手術に行く際は瀧澤氏が同行するようになっていた。
医局からの派遣期間の2年がたとうとしていた3月、一人の医師が開業のために辞めることになった。このタイミングで自分も大学に戻れば、現場や患者が困ってしまうと思い、あと1年だけ延長させてほしいと医局に頼み込んだが、認められなかった。そして瀧澤氏は勢いでこう言ってしまう。
「だったら医局を辞めます」
4月から働く場所がなくなってしまった。それを救ったのは上山氏だった。看護師から医局を辞めたことを聞き、秋田県立脳血管研究センター(以降、秋田脳研)にポストを用意してもらうよう連絡してくれたのだ。秋田脳研には日給8000円の非常勤で行った。アルバイトをしながら生活を維持し、半年で正規職員になれた。
秋田脳研に勤め2年がたとうとしたころ、上山氏から旭川日赤に戻ってこないか、と連絡があり、再び旭川日赤に赴任する。瀧澤氏は全国から上山氏の「神の手」の手術を希望して訪れる全ての患者の主治医を受け持った。上山氏の出張手術も増え、そのたびに同行して技術や考え方をスポンジのように吸収していく。
「僕が開頭を行った後、上山先生に引き継ぎ、目の前で神の手がどう動くのか、その全てを吸収しようと集中しました。上山先生がいる時は自分で執刀したいとは全く思いませんでしたね。技術もスピードも秀でていましたし、患者さんが明らかに良くなりますから」
瀧澤氏の手術の才能が開花し始めたのは、上山氏に次ぐ2番手の医師が辞め、手術を経験できる症例が増えてきたころだった。それから10年たった2012年、上山氏が他病院に移る際にトップのバトンが瀧澤氏へと渡された。
旭川日赤は北海道大学(以降、北大)の基幹病院であったため、脳神経外科のトップは代々、北大出身者が担ってきた。瀧澤氏は旭川医大出身であったが、組織の枠を超えて評価されたのは、その実力はもちろんのこと、人間としての魅力も大きかったからに違いない。