手術は目的ではなく手段 患者が良くなる自信があるから手術をする 瀧澤 克己

日本赤十字社 旭川赤十字病院
脳神経外科 部長
[Challenger]

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/田口素行 撮影/船戸俊一

旭川赤十字病院の脳神経外科では年間550例以上もの手術を実施。脳動脈瘤手術件数は180件を超え、全国でもベスト10に入る症例数を誇る。そのトップを務めるのが、極細の血管をつなぎ合わせるバイパス術など、超難度手術を手がける脳血管障害治療のエキスパート、瀧澤克己氏である。その一流の腕を求めて海外からも絶えず手術依頼が来る。しかし、当初は手術のたびに手が震え、他の道を勧められたこともあったという。

そんな瀧澤氏の軌跡とともに、一流であり続けることを支える思考に迫る。

一番近くで神の手を見続け 一挙手一投足を吸収してきた

「手術は駄目だな」

医師になって6年目の1996年。旭川医科大学の医局からの派遣で旭川赤十字病院(以降、旭川日赤)の脳神経外科に赴任した瀧澤克己氏は、脳動脈瘤手術の第一人者であり、「神の手」を持つとして広く知られていた上山博康氏(現・社会医療法人禎心会脳疾患研究所所長)からそう言われたことがある。指導は厳しく、緊急手術があれば深夜であっても医師全員が集まる。手術室は各人が腕を磨こうと常に医師たちであふれていた。

当初は手術のたびに手が震えていたという瀧澤氏。手の震えは血管縫合に致命的だった。

「僕の手術によって悪くなってしまうのでは、という恐怖心から手が震えていました。自分の腕に自信がないんですよね。だから『手術は駄目だな』と言われても認めざるを得ませんでした。体力だけは自信があったので、それを頼りに何とかついていきました」

瀧澤氏はカルテや診断書の作成など事務的な作業を進んで行った。手術室よりも病棟によく足を運び、術前・術後の患者を診た。時に「なぜ手術室にいないんだ」と言われながらも、他の医師がやりたがらない仕事を率先して行う姿を上山氏はしっかり見ていた。

手術が何とかできるようになったのは赴任して1年半たったころ。上山氏が出張手術に行く際は瀧澤氏が同行するようになっていた。

医局からの派遣期間の2年がたとうとしていた3月、一人の医師が開業のために辞めることになった。このタイミングで自分も大学に戻れば、現場や患者が困ってしまうと思い、あと1年だけ延長させてほしいと医局に頼み込んだが、認められなかった。そして瀧澤氏は勢いでこう言ってしまう。

「だったら医局を辞めます」

4月から働く場所がなくなってしまった。それを救ったのは上山氏だった。看護師から医局を辞めたことを聞き、秋田県立脳血管研究センター(以降、秋田脳研)にポストを用意してもらうよう連絡してくれたのだ。秋田脳研には日給8000円の非常勤で行った。アルバイトをしながら生活を維持し、半年で正規職員になれた。

秋田脳研に勤め2年がたとうとしたころ、上山氏から旭川日赤に戻ってこないか、と連絡があり、再び旭川日赤に赴任する。瀧澤氏は全国から上山氏の「神の手」の手術を希望して訪れる全ての患者の主治医を受け持った。上山氏の出張手術も増え、そのたびに同行して技術や考え方をスポンジのように吸収していく。

「僕が開頭を行った後、上山先生に引き継ぎ、目の前で神の手がどう動くのか、その全てを吸収しようと集中しました。上山先生がいる時は自分で執刀したいとは全く思いませんでしたね。技術もスピードも秀でていましたし、患者さんが明らかに良くなりますから」

瀧澤氏の手術の才能が開花し始めたのは、上山氏に次ぐ2番手の医師が辞め、手術を経験できる症例が増えてきたころだった。それから10年たった2012年、上山氏が他病院に移る際にトップのバトンが瀧澤氏へと渡された。

旭川日赤は北海道大学(以降、北大)の基幹病院であったため、脳神経外科のトップは代々、北大出身者が担ってきた。瀧澤氏は旭川医大出身であったが、組織の枠を超えて評価されたのは、その実力はもちろんのこと、人間としての魅力も大きかったからに違いない。

設備や機器が乏しくとも自分の腕だけで患者を救う

瀧澤氏は6年ほど前から毎月のように世界を飛び回って手術を行っている。きっかけは、当時藤田保健衛生大学の脳神経外科教授であった加藤庸子氏から「カンボジアの脳神経外科医に講義をしてほしい」と依頼されたことであった。

「頼まれたら断れない性格なんですよね」

海外へ行くようになると、やがて現地の医師から直接、手術依頼のメールが来るようになった。そのほとんどが手術困難な症例で重症化しているものだった。

カンボジアでは頭部にできた原因不明の大きな瘤を取る手術をした。現地にアンギオはないため脳血管撮影をするために患者の首から血管造影剤を注入し、タイミングを合わせて単純X線写真を撮った。手術後、病理検査をすると瘤の原因は感染症という珍しいものであった。

ベトナムでは動脈瘤が原因で両目の視力が失われようとしている子供の手術をした。その動脈瘤は瀧澤氏が今まで診てきた中で一番大きなものだったという。

頭部結合双生児の分離手術 誰も助けられなかった命救う

最近では、インドから頭部結合双生児の分離手術の依頼が来た。双生児の二つの脳は一つの血管によって維持されており、分離して二人を助けるためにはもう一つ血管をつくる必要がある。しかも脳の表面にある極細の血管を何本もつくり替えなければならない。驚異的な集中力と体力が必要だ。もちろん瀧澤氏も分離手術は未経験であり、最難関手術であることは容易に想像ができた。だが、瀧澤氏は断らなかった。できる自信があったからだ。

「やったことはないけど、血管をつくり替えるのは何度もしていますからね。僕でよければと返事をしました」

18時間に及ぶ手術は無事に成功。ただし、当初インドでは瀧澤氏の貢献は発表されなかった。この手術はインドの国家プロジェクトであり、日本人医師の活躍は国の威信に関わることであったからだ。しかし、現場は違った。手術室にいた全ての医師が手術の腕に目を見張り、同じ医師として尊敬の念を抱いた。そこに国家の威信は関係ない。依頼をしてきた全インド医科大学(AIIMS:ニューデリーに本拠を置く医学研究の公立大学)の教授はこの功績をリークした。

双子の退院時にはBBCのニュースに大きく取りあげられ、世界に発信された。後日、インドの脳卒中外科学会から記念のプレートとターバンが瀧澤氏に贈られ、今では、インドの神経麻酔学会のフェイスブックには瀧澤氏の写真が使われている。

海外へ手術に出向く際は、ほとんどが強行スケジュールであり、プライベートな時間を犠牲にしている。決して旭川日赤での仕事をおろそかにしているわけではない。普段からずっと病院にいて、誰よりも手術を行っている。「だから、文句も言いたいのだと思いますが、表立っては言われていません」と瀧澤氏は笑う。では、なぜそこまでして海外での手術に赴くのだろうか。

「医療機器は乏しく、設備も整っていない。珍しい症例が多く、ほとんどが重症です。そうした環境でチャレンジすることは自分の勉強や成長のためでもあるし、現地の医師がするよりも良い結果を出す自信があるから。それは患者さんのためでもあるんですよね」

「患者第一」と「凡事徹底」 そして、楽しむこと

医師として一番大切なことは「患者第一」だと強く言う。常に患者にとって何が最善なのかを考えること。医師として当たり前のことかもしれないが、実行するのはなかなか難しい。

「本来は患者さんが治るのが一番の目的ですが、手術が目的になっている医師が多いです。だから見て覚えるということに我慢できる人が少ない。自分がやって良くなるか分からない手術をするのなら、患者さんのためにも見て学んだほうがいい」

座右の銘は「凡事徹底」だ。当たり前のことを徹底的に行うこと、当たり前のことを極めて、他人の追随を許さないことを意味する。

瀧澤氏は常に患者を第一に考え、腕に自信のない自分が執刀をするのなら見て学んだ方がいいと、徹底してきた。誰もやりたがらないことを率先して行い、脳神経外科の基本手技である開閉頭を誰よりも経験するなど、その時の自分にできることを一所懸命に積みあげてきた。当初は「手術は駄目だ」と評価されたが、今や施設のトップとなり、日本の脳神経外科をけん引し、その一流の技術を求めて海外からも手術要請が多く来る。「脳手術の魔術師」ともいわれるその腕は、持って生まれたものではない。

神の手を見続け学んだ 次は自分が見せて育てる

「手の震えがなくなり、手術に自信が持てたのは上山先生が他院に移った後、多くの手術を経験するようになってから。それまで神の手を間近で見続けたことも大きかった。誰にでも手術がうまくなるチャンスはあるのですが、嫌なことがあると諦めてしまったりする。『手術は駄目だから血管内治療はどうだ』と言われたこともありましたが、その道に進んでもトップを目指して頑張っていたと思います」

どの診療科でも、どんな仕事でも、考え方や工夫次第で面白くなり、楽しくできるはず。それが一流になるために必要なマインドだと言う。

瀧澤氏の下には、マレーシア、ロシア、ウズベキスタン、バングラデシュ、韓国などからも医師たちが学びに訪れる。帰国後もこんな脳血管手術をした、という詳細な報告が届き、意見を求められる。旭川日赤で学ぶ初期臨床研修医の中にも、瀧澤氏に憧れ脳神経外科に進む医師が毎年出ている。

上山氏の「神の手」から学び、今度は自身が若手医師や国内外の脳神経外科医に一流の手技を教え、育てている。瀧澤氏は自分が執刀する患者だけではなく、国内や海外から学びに来る医師を通して世界のあまたの患者たちを救っているのだ。

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2020年1月号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。

P R O F I L E

たきざわ・かつみ
1965年 北海道倶知安町生まれ
1990年 旭川医科大学 医学部 卒業、旭川医科大学 脳神経外科 入局
1996年 旭川赤十字病院 脳神経外科
1998年 秋田県立脳血管研究センター 研究員
2000年 旭川赤十字病院 脳神経外科
2007年 旭川赤十字病院 脳神経外科 第三部長
2010年 旭川赤十字病院 脳神経外科 第二部長、医療安全推進室 室長
2012年 旭川赤十字病院 脳神経外科 第一部長、上席院長補佐(現職)