物言わぬ遺体の声なき声を拾う――医学のブルーオーシャンを泳ぐ法医 垣本 由布

東海大学医学部
基盤診療学系法医学 講師
[Challenger]

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/横井かずえ 撮影/皆木優子

法医が解剖によって見つけ出す身体情報の痕跡は、生きている人と亡くなった人をつなぐ唯一の情報だ。そうした貴重な声を拾うことができる法医は、全国で約150人しかいない。
そのうちの一人として活躍する東海大学医学部の垣本由布氏は、東日本大震災で多数の遺体を検案した経験から、「生きている人と亡くなった人をつなぐ仕事は、絶対に必要」と断言する。未開拓の領域が広く、医学のブルーオーシャンともいえる法医の素顔に迫った。

臨床医の方が役に立てるのでは?その迷いが吹っ切れた震災経験

2011年3月某日、岩手県。遺体安置所となった体育館の一角で、垣本由布氏は物言わぬ遺体の声を拾おうと懸命になっていた。広い体育館には、東日本大震災の犠牲者たちの遺体が隙間なく並べられている。消防団や自衛隊によって次々と運び込まれてくる遺体を、検案していくのが垣本氏に与えられたミッションだ。

数日前までは京都大学大学院で、平穏な研究生活を過ごしていた。警察から遺体が持ち込まれればそれを解剖し、死体検案書を作成する。解剖の件数もさほど多くはなく、取り立てて心に残る案件にも出合わなかった。

「臨床医の方が、もっと誰かの役に立てるのでは」

そんな思いが頭をよぎることもあったという。そこに起こった東日本大震災。1万人を超す犠牲者の死体検案書を書く法医が不足し、ボランティア派遣された被災地で見た光景は、大学の研究室とは180度、異なるものだった。

検案をしている遺体安置所のついたて一枚隔てた向こうでは、家族が必死の思いで行方不明者を探している。損傷がひどい遺体も多く、犠牲者が家族と出会うために、垣本氏ら法医が見つけ出す、推定年齢や手術跡などの身体情報が必要だった。

「私にできることは、一つでも多くの情報を見つけ出し、亡くなった方とご家族との再会を手助けすること。家族が行方不明のままでは、生き残った人はいつまでも前へ進むことができないからです」

被災地では警察や消防、医療スタッフ、ボランティアなど多くの人たちがそれぞれに必死の思いで活動していた。法医としてその活動の一翼を担ったとき、垣本氏は自身も大きな歯車の一つなのだと感じたという。

「歯車でいいのです。それが役に立つ歯車なら、私はむしろその一つになりたい」

この経験を通して、それまで抱いていた迷いは完全に吹っ切れた。

「生きている人を救う臨床医がいて、他方で亡くなった人と向き合う法医がいる。いろいろな医者の生き方があってもいいのではないでしょうか」

一人くらい、亡くなった人の声を聴く医者がいてもいい

初めて法医という仕事を知ったのは小学生のとき。当時ベストセラーとなっていた『死体は語る』(上野正彦著)を読んだのがきっかけだ。

「両親が共働きで祖父母に育てられました。小学生のとき、祖父母が相次いで亡くなり、『人が死ぬとはどういうことか』と考え、出合ったのがこの本です。本には、法医学の力を借りることで『亡くなった人の声を聴くことができる』とありました。生きている人と亡くなった人をつなぐ仕事があると知り、興味を持ち始めたのです」

法医を志して北海道大学医学部に進学、その後、京都大学大学院医学研究科法医学講座へと進学した。研修医になってから、もし他に興味を持てる診療科があれば、そちらへ進んでもいいと考えていた。しかし研修医時代に垣本氏の中で一番印象に残ったのは、心肺停止で搬入され蘇生しなかった人たちだったという。心肺停止の患者が一番印象に残った理由について、垣本氏はこう語る。

「つらい、苦しいと言える人に対しては、たくさんの救いの手が差し伸べられますよね。でも亡くなった人のところには誰も来てくれない、何もしてあげられない。ならば一人くらい、その人の声を聴く医者がいてもいいのではないか、と思ったのです」

現在は、東海大学医学部基盤診療学系法医学に所属し、年間100体程度の解剖を担当する。解剖のない日は、解剖した組織を小さくホルマリン固定する「切り出し」作業や、警察へ提出する鑑定書の作成、大学内の講義、研究などを行っている。大学内での仕事に加え、東京都監察医務院にも非常勤で所属し、警察に出向いての検案も行っている。

法医学専攻の医師は、全国でも約150人と極端に数が少ない。

「当研究室には出向を含めて3人の医師がいますが、これでも多い方だと思います。やはり人手不足は常に感じますね」

新専門医制度の領域に、法医学が入っていないことも懸念材料の一つだ。

「新専門医制度の枠組みに入っていないことで、法医学を選ぶ人が減るのではないかと心配です。とはいえ現状の人手では、カリキュラム作成まで手が回らないのも事実。何とか病理や公衆衛生などの一環として、法医学を取り入れてもらえればいいのですが」

他の診療科から法医学の道を選んでやってくる医師も少なくない。

「病理学や放射線科など他の診療科を経験してから法医学に入ってこられた先生方もいます。法医学が対象とするのは、胎児から高齢者までさまざまですから、他科の知識はどれも貴重です。転科先の一つとしてもぜひ、興味を持っていただけたらうれしいですね」

女性科学者日本奨励賞を受賞 研究の手を休めてはいけない

遺体の解剖や検案と同時に、研究にも積極的に取り組んでいる。2014年には世界有数の化粧品会社ロレアルグループとユネスコによる、女性科学者の支援プロジェクト「ロレアル─ユネスコ女性科学者日本奨励賞」を受賞した。研究テーマは「ホルマリン固定組織のタンパク質分析による急性心筋梗塞早期診断マーカーの発見」だ。突然死の死因解明の際に、発症直後に現れるタンパク質の変化によって急性心筋梗塞の有無を診断しようとする試みである。

死後の診断にとどまらず、突然死の発症予防に役立つ発見を目指し、現在も引き続き「心臓性突然死」と「乳児突然死症候群 」を研究テーマに探究を続けている。根底には、臨床医学と比較して研究が進みにくい、法医学研究を推進したいという強い思いがある。

「法医学で警察から依頼が来る案件の約7割は病死、そのうち過半数は心臓に関する突然死です。ですが、突然死の原因となる致死性不整脈の発生については死後直接的に診断できないこともあり、他の死因が否定された結果、除外診断的に心臓性突然死とされるケースも少なくありません」

例えば心筋梗塞の場合、心筋に壊死している所見があれば、間違いなく心筋梗塞と断定できる。しかし、発症直後に死亡した場合には心筋壊死の所見が見られなかったり、発作時には血管攣縮により閉塞していた冠動脈が、死後の筋弛緩のために解剖時には閉塞していないことがある。このような曖昧さがあるため、死後診断には解決すべき課題がたくさんあるのだという。

「生きている人に対しては症状に応じてさまざまな生理学的な検査を行うことができ、医学研究は日々、前進します。それに対して法医学では、唯一の手掛かりは物言わぬ臓器のみ。人手不足や研究設備不足などとも相まって、研究面では遅れが目立ちます。ですが、より正確に死因を特定するためには、研究の手を休めてはならないのです」

プライベートでは2017年に第一子を出産。産休から復帰後は、子供と夕食を取るために、残業はしないと決めた。

「夜間の呼び出しもありませんし、翌日まで待ってもらえる仕事です。実際に時短勤務のスタッフも重要な戦力として活躍しています。ご遺体の運搬から解剖まで警察の方がサポートしてくださるので、外科系の割には力仕事もありません。その意味では女性にとって働きやすい職種です」

法医学から臨床につなぐ看取りを受け入れる社会を

「人が死ぬことを、もっと自然なこととして受け止められる社会にしたい」

そう語る垣本氏は、法医学から臨床につながるような仕事をすることが目標だ。

「例えば高齢者施設で、自然な死が近づきつつあることに周囲が気づいていながら、死亡後、救急搬送され警察で取り扱われる患者さんがいます。医療サイドも患者さんサイドも、もっと看取りを自然なこととして受け入れられるようになればと思います。自然な死は自然に看取られ、原因不明の不自然な死については、法医が何が起こったかを明らかにできるようになれば、全ての死を社会に還すことができます」

さらに、孤独死も心にとげとなって残る事例の一つだ。

「脳梗塞なども、発症してすぐに発見されれば死ぬ病気ではありません。それが発症して身動きがとれないまま何日も発見されず、ゆっくりと死に至る。これこそ本当の孤独死だと思います。そうしたケースをなくすために、もっと社会的なインフラが整備されることを願ってやみません」

死者の声を生者に伝える唯一の伝達者ともいえる法医。人手は足りていないが、その分だけやりがいもあると垣本氏は微笑みながら言う。

「法医学は、ある意味で医学のブルーオーシャン。人数が少ない分、一人ずつの裁量も大きい。出合った症例一つ一つから学び続ける日々ですが、やりがいは尽きませんね」

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2020年2月号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。

P R O F I L E

かきもと・ゆう
2008年 北海道大学 医学部 卒業、市立千歳市民病院 初期臨床研修医
2010年 京都大学大学院 医学研究科 法医学講座
2014年 東海大学医学部 基盤診療学系法医学 講師