米国式オンコロジー(腫瘍学)を日本へ 腫瘍内科の確立と日米折衷の研修スタイルをつくる 大山 優

亀田総合病院
腫瘍内科 部長
[Challenger]

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/横井かずえ 撮影/緒方一貴

29歳で渡米し、10年にわたり米国で腫瘍内科専門医として敏腕を振るってきた。 帰国後は、当時、まだ日本では珍しかった腫瘍内科の立ち上げに尽力。 アグレッシブにも見える半生だが、その行動を支えてきた根底にあるのは「患者にとって満足度の高い治療を提供したい」というシンプルな思い。 迷い悩んだ20代、ひたすら技術研鑽に励んだ30代、腫瘍内科の立ち上げに挑戦した40代を経て、今は若手の育成に情熱を注ぐ大山優氏に、医師として挑戦し続ける意味を聞いた。

20代はごく普通の内科医 米国留学で腫瘍内科を学ぶ

2006年、米国――。シカゴのノースウェスタン記念病院で腫瘍内科専門医として敏腕を振るっていた大山優氏は、人生の岐路に立っていた。 病院ではスタッフ医師として働き、やりがいは十分だった。 競争は激しいが、努力すれば結果は返ってくる。ボスや同僚からの評価も高い。

「このままずっとアメリカで医師として働くのも悪くない」

――そんなふうに思っていた矢先、当時、日本ではまだ珍しかった腫瘍内科の立ち上げを亀田総合病院から打診された。「米国式がん診療を取り入れたい」。そんな亀田信介院長の熱意は強く、院長自ら渡米してのオファーは合計3回に及んだ。3年間、迷った末に帰国を決意。大山氏が選んだのは、ホームグラウンドに戻っての新たな挑戦だった。

日本における腫瘍内科の歴史は古くない。だが、米国では1960年代からスタートした専門科の一つで、循環器内科と並んで内科系では最大規模の診療科である。がんは発生部位や組織型が異なっていても、治療の共通項は多い。使用する薬剤には同一系統のものも多く、どのような状態になったら切除可能か、どのような状態であれば手術ではなく化学療法と放射線治療が選択肢になるかなど、核となるコンセプトは変わらない。そうした中、診療科を横断して、全てのがん種を対象に患者の全身モニタリングに関わる腫瘍内科のニーズは高い。

「アメリカでは固形がん、血液がんを問わず、ほぼ全てのがん種が血液腫瘍内科の領域です。大学病院の腫瘍内科は規模が大きく、スタッフの臨床医と研究員がそれぞれ20人程度で、教員が約40人、研修医は約15人所属します。一般内科で3年間の研修を終えた後に、腫瘍内科の専門科で3年間トレーニングを受けるので、専門医になるには最短で6年かかります」

20代は内科医として、ごく普通の道を歩んできた。大学卒業後は、聖路加国際病院の内科で研修。その後大学病院へ進んだ。しかし、さらなる学びを求めていた大山氏が恩師に相談したところ、恩師の口から出たのは「アメリカへ渡れ」という言葉だった。そこから猛勉強を始めて米国の研修医資格を取得し、1996年から米国トーマスジェファーソン大学の内科で研修生活をスタートした。

「勉強は、今思い出しても二度とやりたくないと思うほど頑張りました。ですが絶対にアメリカに行きたかったので、とにかく必死でかじりついたのを覚えています」

晴れて米国で研修医となったものの、内科だけで1学年四十数人という大所帯。しかも外国人はほとんどいないという環境の中、初めは聖路加国際病院へ帰りたくて仕方なかったという。

ところが研修医の顔合わせ当日。会話も不慣れな大山氏に周囲の研修医たちは、「おまえもこっちへ来いよ」と口々に言葉を掛けてくれた。

「言葉も十分に話せない異国人であっても受け入れてくれる。アメリカ人の包容力を感じましたね」

そこからは毎日、学生が患者に話す言葉をメモしてはそれを繰り返し話して習得。半年がたち、会話にも不自由しなくなってきたころには、日本へ帰りたいという思いはどこかへ消えうせていた。

渡米し10年、亀田氏の誘いを受け 日本で腫瘍内科の立ち上げを決意

トーマスジェファーソン大学で研修を終えた後は、複数の病院を見学後、ノースウェスタン大学の血液腫瘍科のクリニカルフェローへ進んだ。2002年には同学内科免疫療法科講師に就任するとともに、シカゴにあるノースウェスタン記念病院でスタッフ医師となった。米国での生活はハードな半面、やりがいがあった。

「診療であれ教育であれ、良いものを提供すればそのまま自分に評価が返ってきます。研修でも、毎回評価表がフィードバックされるため、指導医も研修医も気を抜くことはできません」

診療、研究、勉強、治療にまい進して6年が経過したころ、米国でがん診療に取り組む大山氏を取り上げた記事が日本の新聞に掲載された。それを目にしたのが亀田院長だった。「亀田総合病院でも米国式のがん診療を取り入れたい」と、大山氏をリクルートしに米国までやって来たのだ。

「当時の私は30代で、気力も体力も充実していました。クリニックでも働きを認められて、引き続きアメリカに残るよう切望されてもいました」

米国と日本の間で大きく心が揺れ動く中、亀田院長への返答を出すことができずに約3年が経過した。だが40歳を目前にしたとき、心境の変化が訪れた。

「ずっとアメリカで働いて50代、60代になった先生に何人もお会いしました。皆さん幸せに暮らしているけれど、心のどこかで日本に帰りたがっている様子でした。両親も老いていく。『今、帰らなければ一生、日本に戻ることはない』と漠然と感じたのです」

こうして大山氏は帰国を決意。2006年10月、亀田総合病院に着任すると、すぐさま腫瘍内科の立ち上げに着手した。

大山氏の帰国当時、日本では大学病院でも腫瘍内科を持つ施設はまだ数えるほどしかなかった。そのため同院には後期研修医を中心に全国から医師が来て、常時17、18人の医師を抱えていたという。

現在は大山氏を含めて8人の腫瘍内科医が在籍し、年間約800人の新規患者を診ている。院内全ての診療科とコミュニケーションを取り、信頼関係を構築してきた結果、あらゆるがん種の治療を院内・院外から依頼される。

頭頸部・胸部・消化器・乳腺・泌尿器の5つのキャンサーボードを設置し、毎週または隔週でカンファレンスを開催。キャンサーボードではシンプルな事例から複雑で困難な事例まで全てを検討するため、研修医と指導医の双方にとって重要な実践教育の場にもなっている。

「外科ではごく一部を除き、化学療法患者さんほぼ全てを当科に回してくれます。腫瘍内科医が化学療法患者さんの全身モニタリングを担うことによって、外科医は手術に集中することができます。その他、合併症のある患者さんや強力な抗がん剤を使用するケースなども化学療法を扱う他科から紹介されます」

日米折衷の亀田式研修体制構築 後期研修では外来研修が充実

亀田式腫瘍内科の後期研修は日米折衷スタイルが特徴だ。中でも特筆すべきは、外来研修に力を入れていること。研修医は外来初診から病状説明、検査と治療のための入院、あるいは外来での治療開始とその後の全てのフォローを指導医とマンツーマンで経験する。

「外来診療には医師としてある程度の知識と技量が必要。突然やって来た患者さんを診察してどのような病態であるかを判断するには、相当の経験が求められます」

初めの3カ月は病棟で指導医とともに回診などを行い、その後は外来研修を開始する。外来では指導医は横に座ったり、隣室などで診察を行っていて、1年間は全ての患者を研修医と一人ひとり確認・診察する。これを行った後は、必要なときにフォローしたりカルテをチェックし、きっちり診療されているか確認する。

「日本の施設ではあまり見られない研修スタイルかもしれません。こうした研修を受けた結果、3年後には一人で外来診療が可能な実力を付けることができます」

「この世の終わり」と感じる患者に救いの手を差し伸べたい

日米双方の医療を経験し、日本人の患者の方が対応が難しいと感じることもあるという。

「誤解を恐れずに言えば、日本人の患者さんの方が要求が多様で、対応に時間がかかると感じることもあります。例えば、末期で状態が悪い場合でも化学療法を求める患者さんや家族もいます。ですがそれはご本人のためにはならない。そういったことを時間をかけて説明して理解していただくのに、とても気を遣います」

患者の多様な要求に応えるためには、コーディネーター役の存在が必要だとも指摘する。

「健全な医学的根拠に基づく説明を行う医師と、患者さんの理解を深めるための中間を取り持つ職種ができればこの問題は解決に近づくのではないでしょうか」

帰国から13年が経過した。しかしいまだ道半ばと語る。

「高度な技術を身に付けても、学びの手を止めれば腕はすぐに鈍ります。その意味では私もまだ研鑽の途中。ですが、さまざまながんの相談に乗ったり、難しいがんの患者さんを救うことができるこの仕事が好きなんです」

自身の研鑽と合わせて、最も力を入れているのが若手の育成である。

「今後、病院も医者も淘汰(とうた)される時代が来る。若い医師には、そうなったときに備えて学び続けろ、そして患者さんに愛され続ける医者になれと話しています。そうすれば、必ず医者として生き残ることができます」

ひたすらに高みを目指して技術を磨き続けてきた。だが根幹を支えているのは「患者に満足してもらえる治療がしたい」というシンプルな思いだ。

「がんになり、患者さんと家族は『この世の終わり』とさえ思うこともあります。彼らに『大丈夫ですよ』と声をかけ、心を支えながらベストな治療を尽くす。そして、帰り際に『ここに来て良かった』と希望を持ってもらうこと。私がこれまで行ってきて、今後も行うべきことは、ただこれに尽きると思います」

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2020年3月号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。

P R O F I L E

おおやま・ゆう
1991年 日本大学医学部 卒業、聖路加国際病院 内科
1994年 日本大学医学部 第一内科
1996年 トーマスジェファーソン大学 内科
1999年 ノースウェスタン大学 血液腫瘍科
2002年 ノースウェスタン大学 内科 免疫療法科 講師
     ノースウェスタン記念病院(シカゴ) スタッフ医師
2006年 亀田総合病院 腫瘍内科 部長