20代はごく普通の内科医 米国留学で腫瘍内科を学ぶ
2006年、米国――。シカゴのノースウェスタン記念病院で腫瘍内科専門医として敏腕を振るっていた大山優氏は、人生の岐路に立っていた。
病院ではスタッフ医師として働き、やりがいは十分だった。
競争は激しいが、努力すれば結果は返ってくる。ボスや同僚からの評価も高い。
「このままずっとアメリカで医師として働くのも悪くない」
――そんなふうに思っていた矢先、当時、日本ではまだ珍しかった腫瘍内科の立ち上げを亀田総合病院から打診された。「米国式がん診療を取り入れたい」。そんな亀田信介院長の熱意は強く、院長自ら渡米してのオファーは合計3回に及んだ。3年間、迷った末に帰国を決意。大山氏が選んだのは、ホームグラウンドに戻っての新たな挑戦だった。
日本における腫瘍内科の歴史は古くない。だが、米国では1960年代からスタートした専門科の一つで、循環器内科と並んで内科系では最大規模の診療科である。がんは発生部位や組織型が異なっていても、治療の共通項は多い。使用する薬剤には同一系統のものも多く、どのような状態になったら切除可能か、どのような状態であれば手術ではなく化学療法と放射線治療が選択肢になるかなど、核となるコンセプトは変わらない。そうした中、診療科を横断して、全てのがん種を対象に患者の全身モニタリングに関わる腫瘍内科のニーズは高い。
「アメリカでは固形がん、血液がんを問わず、ほぼ全てのがん種が血液腫瘍内科の領域です。大学病院の腫瘍内科は規模が大きく、スタッフの臨床医と研究員がそれぞれ20人程度で、教員が約40人、研修医は約15人所属します。一般内科で3年間の研修を終えた後に、腫瘍内科の専門科で3年間トレーニングを受けるので、専門医になるには最短で6年かかります」
20代は内科医として、ごく普通の道を歩んできた。大学卒業後は、聖路加国際病院の内科で研修。その後大学病院へ進んだ。しかし、さらなる学びを求めていた大山氏が恩師に相談したところ、恩師の口から出たのは「アメリカへ渡れ」という言葉だった。そこから猛勉強を始めて米国の研修医資格を取得し、1996年から米国トーマスジェファーソン大学の内科で研修生活をスタートした。
「勉強は、今思い出しても二度とやりたくないと思うほど頑張りました。ですが絶対にアメリカに行きたかったので、とにかく必死でかじりついたのを覚えています」
晴れて米国で研修医となったものの、内科だけで1学年四十数人という大所帯。しかも外国人はほとんどいないという環境の中、初めは聖路加国際病院へ帰りたくて仕方なかったという。
ところが研修医の顔合わせ当日。会話も不慣れな大山氏に周囲の研修医たちは、「おまえもこっちへ来いよ」と口々に言葉を掛けてくれた。
「言葉も十分に話せない異国人であっても受け入れてくれる。アメリカ人の包容力を感じましたね」
そこからは毎日、学生が患者に話す言葉をメモしてはそれを繰り返し話して習得。半年がたち、会話にも不自由しなくなってきたころには、日本へ帰りたいという思いはどこかへ消えうせていた。