米国で育ち、日本に憧れ 己を知り自らの行動で切り開く
アメリカ・ロサンゼルスで生まれ育った田中氏。日本人の両親は実業家で、裕福な生活から一転、食事も満足にできないような生活へと変化の激しい幼少期を過ごした。幼いながらも「自分で身に付けた知識や技術で人の役に立つ職業に就きたい」という思いがあり、中学生の頃には医師になろうと決めていた。高校時代に選択した解剖学の授業も、医師になる夢を後押しした。
「授業で猫の解剖をしました。教科書に載っている神経や血管、臓器がそのまま目の前にあって、これが生命なのだと、神秘を感じました」
その一方で、日本人としてのアイデンティティーに悩む日々だったと振り返る。
「当時の私の周辺には日本人がほとんどいなかったので、学校でも差別を受けました。日本食のお弁当を持って行くといじめられる。でも両親は『日本人としてのプライドを捨てるな』と、絶対にサンドイッチには替えてくれませんでした」
自分は何者なのか――。米国にいながらも幼い頃から日本文化に親しみを持っていた田中氏にとって、日本は居心地の良い場所。次第に「日本で生活する方が自分には合っている」と思うようになっていった。
日本で医師になることを両親から反対され、南カリフォルニア大学の医学科に進学したものの、「日本に行きたい」気持ちは膨らんでいく。そこで、まずは奨学金で早稲田大学国際部に留学し、そこから医学部受験のための予備校に通うことにした。「1年間だけチャレンジして駄目だったら諦めて帰るつもりでした」と言うが、努力が実を結び、東海大学の医学部に合格。形成外科を専門に選んだのは、医学部5年生で米国のウェイクフォレスト大学に留学したときの経験が大きい。米国では学生でも研修医と同じくらい臨床に関わることができるため、いくつも手術を手掛けるうちに「自分に向いている」と確信したという。
「例えば、交通外傷で顔を損傷した患者さんを手術して、うまく再建できればその方の人生が変わりますよね。患者さんの明るい未来をつくる手助けをできることが、医師としてのモチベーションになると思ったのです」
大学院卒業後は最短で学位と専門医資格を取得。臨床では専門医資格の取得に必要な症例数を集めるために、周りの医師たちから驚かれるほど積極的な姿勢で臨んでいた。
「手術の予定表をチェックしながら、『これは私、これも私にやらせてください!』と率先して手を挙げていました。周囲に応援してもらえたからこそできたのだと思います」
着実に努力を積み上げるのが田中氏のやり方。専門医試験に向けては、何千問とある過去問を2年間かけて全て解いた。
「普通だったら半年も勉強すれば合格できるのでしょうが、私はそれでは間に合わないと思いました。だから目標を決めたら、そこから逆算してコツコツやる。何をするのにも、まずは『己を知ること』が大事だと思っています」