「女川のためにできることを」 震災後の町で地域医療を支える小児科医 今野 友貴

公益社団法人 地域医療振興協会
女川町地域医療センター
[Challenger]

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/安藤梢 撮影/小菅聡一郎

東日本大震災をきっかけに、父の実家があった宮城県の女川町に移り住んだ今野友貴氏。10年にわたる大学病院での小児医療の経験を生かしながら、女川で唯一の診療所で地域医療に奮闘している。小児人口が少ない地域にもかかわらず、女川への熱い思いを胸に自身の存在意義を見いだしていく。そこには「診療を通して地域に貢献したい」という気持ちを超え、住民たちと触れ合う女川での暮らしを心から楽しんでいる姿があった。

町のかかりつけ医として 地域医療の要を担う

復興のトップランナーともいわれる女川町は、宮城県の海沿いにある小さな港町。東日本大震災から9年がたち、女川駅をはじめとする中心地は丸ごと新しい町へと生まれ変わろうとしている。もともと過疎化が深刻な地域だったが、震災前に約1万人だった人口は震災をきっかけにさらに減少。現在は6000人ほどで落ち着いている。

「私がここに来たのは震災から2年後で、ようやく瓦礫が片付いたばかりのころでした。今は高台に住宅地もできて、町の整備はどんどん進んでいます」

柔らかな表情でそう話すのは、町で唯一の診療所である女川町地域医療センターで、町民たちの健康を支える今野友貴氏だ。センター長である齋藤充氏からは「震災後に現れた救世主のよう」といわれる貴重な存在。同センターは19床の有床診療所で、100床の介護老人保健施設と通所リハビリテーションが併設されている。町のかかりつけ医としての役割と同時に、女川の医療、介護、保健福祉の拠点としての機能を果たす。常勤医師4人と研修医一人の体制で、日々の診療に当たっている。

「診療所でできることは限られていますが、訪問診療、訪問看護でのフットワークの軽さが強みです。困っている患者さんがいたら『午後に診に行きますね』とすぐに動けます」

今ではすっかりこの地域に溶け込んでいる今野氏だが、震災前までは弘前大学医学部附属病院で小児医療に携わっていた経験を持つ。小児科という専門医療の分野から、なぜ過疎地での地域医療へと方向転換をしたのか。その歩みを追いかけたい。

常勤の小児科医の存在が人口流出の抑止力になれば

大学を卒業する時点で小児科医になることを決めていたという今野氏。弘前大学医学部附属病院小児科の循環器グループに所属し、先天性心疾患や染色体異常といった重症患者の診療を担当していた。

「お母さんのおなかにいるときから診て、生まれてからも入院治療を続ける子も多かった。そのまま最期まで見届けたお子さんもいました。大学病院には重症例が集まるので深刻な患者さんが多いですが、その分やりがいもありました」

心境に変化が訪れたのは医師になって10年目の時。そのまま大学病院で専門的な診療を続けるか、地域の病院やクリニックで小児科医として新たな道を選ぶか。迷った末に湧いてきたのが、「地域で診療をしたい」という思い。その決めてになったのは、2011年に起きた東日本大震災だった。父の実家がある女川が、津波によって壊滅的な被害を受けた。女川のために何かできないだろうか、と考えたことが地域医療に踏み出すきっかけとなった。

女川をなんとかしたい――。その思いに突き動かされるように、震災から半年後には医療支援に向かう。もともと子どもが少ない町で、小児科医は必要ないかもしれない。それでも行動を起こさずにはいられなかった。

女川地域医療センターの前身である女川町立病院は、17mの高台に建てられていたが、1階部分まで浸水。被害の少なかったリハビリテーション室をパーテーションで仕切り、ようやく診察をしている状況だった。今野氏は1週間の夏期休暇を取って病院に泊まり込み、診療を行いながら改めてこの町にとっての小児科医の存在意義を問いかけていた。そのとき、ふと頭に浮かんだのは、ある新聞記事に書かれていた文章。それは「女性と子どもがいなければ町は衰退してしまう」というものだった。

「住みやすい、子育てしやすいといった、若い世代がこの町に残る理由の一つとして、『常勤の小児科医がいること』が挙がればいいなと思いました」

少ないとはいえ、子どもが一人でもいるのならば、この町に小児科医がいる意味もあるのではないか。

「……でも、たぶん私自身が女川に来たかったんだと思います」

それが本音だった。小児科医としてこの場所でできることをしたい。そのための理由が欲しかったのだと、振り返る。

スモールステップで提案する 患者に寄り添う診療を

現在、女川町地域医療センターの小児の外来診療は、全て今野氏が担当し、多いときには1日20人前後の患者を診察する。そうした小児診療の合間を縫って内科をフォローしている。診療所を受診する患者は高齢者が多く、今野氏にとっては専門外の診療分野。その苦労について尋ねると、「困ることばかりでした」と笑顔で答える。

「小児科では10年以上患者さんを診てきましたが、内科は救急外来で少し診るくらい。卒業してからほとんど成人を診ていなかったので、最初は本当に大変でした」 

糖尿病一つとってもさまざまな薬や治療方針があるため、常に新しい知識を得なければ患者にとってベストな治療法を選ぶことはできない。たとえ小さな診療所であっても「自分たちにできる最善の医療を提供したい」という思いが、治療の根底にあるのだ。また、真剣に取り組んでくれる小児医療と比べて、患者の治療に対する向き合い方の違いも、戸惑いを覚える要因の一つであったという。

「初めのうちは生活習慣病の患者さんに『これを直しましょう、あれを直しましょう』と厳しく言っていたのですが、何カ月たっても全然変わらなくて。でも、何十年も続けている生活習慣をいきなり変えるのは難しいですよね」

そこで、スモールステップで提案するように変えた。

「例えば1日30本タバコを吸っている患者さんに『禁煙してください』ではなく、『1日25本に減らしてみたら?』と話します。そうすると『やってみようかな』と少しずつ変えてくれたのです」

気持ちに寄り添うことで、それまで全く聞く耳を持たなかった患者が前向きに治療に取り組むようになった。女川に来てから本格的に始めた訪問診療では、患者の自宅に行くことが医師としてのやりがいにつながっている。

「私自身、病院を受診した時に、聞こうと思っていたことが言い出せなかったりします。医者の私でさえそうなのですから、患者さんはもっと言いづらいはず。訪問診療では患者さんがリラックスしているので、落ち着いて話ができるのがうれしいですね」

親の就労支援だけではなく 子どもの権利を守る病児保育

女川での今野氏の取り組みの一つに、病児・病後児保育室「じょっこおながわ」の立ち上げがある。じょっことは、方言で「いとおしい子ども」という意味だという。開設のきっかけは震災後に一人で子育てをせざるを得なくなった親たちを、医療サイドから手助けしたいと思ったことだった。

「震災で自宅から避難所へ、その後、公営住宅または自立再建住宅へと移動することにより、コミュニティが崩壊・再構築を繰り返しました。その中で核家族化が進み、子育て家庭が孤立を強めるケースも増えました」

子どもが風邪をひけば保育園には預けられず、仕事も休むことができない。そうした窮地を目の当たりにして、「病児保育なら病院で子育て支援ができるのではないか」と考えるようになった。

「院内にワーキンググループをつくり病児保育について学び始めると、単なる『子どもの預け場所』として親の就労支援をするだけでなく、子どもたちが成長発達する権利を守るためのものでもあることが分かりました」

その学びは日々の小児科での診療にも生かされている。親だけに説明をするのではなく、子どもに向かって子どもに分かる言葉で説明をする。診療の中で子どもが「できた」と達成感を味わえることが、成長の過程では重要なのだという。乳児健診にはじまり、保育所の園医、小・中学校の校医を務める今野氏はこう言う。

「保健の分野に深く関わる小児医療では、成長につれて本人にも親御さんにも悩みが出てきます。その一つ一つに対して、解決の糸口を見いだしていくのも私たちの役割です」

震災後は、全国的にも発達の問題を抱える子どもが増加したといわれている。親が抱え込んでしまう問題にいち早く気付き、手を差し伸べる。それは親と共に、子どもの成長を見守ってきた小児科医だからこそできることなのだ。

考え方を変えると見えてくる 「ない」からこそできること

今野氏が好きな本に『ハチドリのひとしずく』(辻信一監修)がある。南アメリカの先住民の伝承で、くちばしで水を一滴ずつ運び、森火事を消そうとする一羽のハチドリの話。「私は、私にできることをしているだけ」というハチドリの言葉と、女川で奮闘する女性医師の姿が重なる。今野氏にとって女川の魅力とはどんなところだろうか。

「一番の魅力は人です。外から来た人に対してシャイな一面もありますが、一度受け入れるとおせっかいなくらいに面倒を見てくれる。そんな温かさがあります」

センターでは毎年10人前後の研修医を受け入れているが、女川は研修医たちにとっても学びの多い環境だ。出島、江島への離島巡回診療に加えて、同センターならではの体験の場も用意されている。

「若い先生たちの中には、お年寄りと一緒に住んだことがない人もいます。歩くスピードはどのくらいか、どのくらい耳が聞こえないのか。お年寄りが生活する上で感じる不便さを知ってもらうために、患者さんと受診から薬の受け取りまでを一緒に行うプログラムがあります」

過疎地における地域医療の現場では「ないもの」に目がいってしまいがちだが、発想を転換させることでできることも見えてくる、と今野氏は語る。

「子どもが少ないから女川に小児科医はいらないのでは、と思っていましたが、病児保育を始めるときには、少ないからこそ『私一人でも女川町の子どもたち全員を診られる』と決断できた。ネガティブなことも、見方を変えればポジティブに変わります」

現在は町に暮らす0歳から14歳までの約500人の小児診療を、一人で引き受けている。

「医師になったばかりの頃は、まさか自分が地域医療に関わるとは思ってもいませんでした。何がきっかけで人生が変わるかは分かりません。だからこそ、その時その時の出会いを大切にしていきたいと思います」

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2020年6月号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。

P R O F I L E

こんの・ゆき
2003 弘前大学医学部 卒業 / 弘前大学医学部 小児科教室 入局
2005 岩手県立北上病院 / 大館市立総合病院
2007 弘前大学医学部附属病院小児科(循環器グループ)
2010 弘前大学医学部附属病院周産母子センター
2013 女川町地域医療センター

影響を受けた人:マザー・テレサ、シュヴァイツァー博士
好きな有名人:鈴木亮平、サンドウィッチマン、さかなクン
座右の銘:明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい(ガンジー)
マイブーム:ロードバイク「ツールド・東北では170km完走!」、ヨガ
マイルール:当たり前のことに感謝する気持ちを忘れないこと。あいさつと、ありがとうと、ごめんなさいをちゃんと言う
女川の好きなモノ:海産物。おいしいさんまの刺身はここでしか食べられないと思っています
宝物:子どもたちからもらった絵やおもちゃなど。自分が大切にしていた救急車の
トミカをくれた子もいて、その気持ちも含めて全て大切にしています

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