黒子に徹し、周囲を輝かせる新たなリーダー像 中川 麗

医師のキャリアコラム[Challenger]

JR札幌病院 プライマル科 科長

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/横井かずえ 撮影/緒方一貴

「縁の下の力持ち」という言葉が誰よりも似合うリーダーがいる。中川麗氏は自身のことを「何一つ自分自身で能動的に決められなかった人生」と話すが、そうした自己評価とは裏腹に、39歳にして札幌徳洲会病院の副院長に就任。一人医長から出発してプライマリセンターの設立に導くなど、周囲の人間の才能を引き出す手法で組織を牽引してきた。また「医師の働き方改革には地域単位で取り組むべき」とし、働き方改革を人生のテーマに掲げている。徹底した利他的精神で組織を成功に導いてきた新たなるリーダー像を体現する、中川氏の素顔に迫った。

たった一人のプライマリ科から プライマリセンターに発展

2010年、札幌徳洲会病院で非常勤の救急当直を開始した当時、中川氏は“人生の迷子”になっていた。

初期・後期研修を終えた後も専門科や常勤先を決められず、医局に属することもなく、研修医時代から成長を見守ってくれた患者ごと受け入れてくれたクリニックで、細々と学びつつ働いていた。北海道大学教育学部修士課程に籍を置き、キャンパス内の小川のほとりで10歳年下の同級生たちとテニスをするなど「現実逃避まっしぐら」の毎日だった。

そのような日々を数カ月ほど過ごし、ひとしきりキャンパスライフを満喫したある日の外来でのことだ。3回ほど挿管した患者が中川氏に向かって「あんなに(挿管の)練習をさせてあげたのに、もう救急当直しないの?先生は救急とか病棟にいた方が似合っていると思うよ」と笑った。

この言葉は胸に刺さった。自分が医師としての使命から逃げているような後ろめたさを感じ、慌てて救急当直のバイトを開始した。このとき、たまたまバイト先に選んだのが札幌徳洲会病院だ。

しかし久しぶりに救急診療を始めたのはいいものの、すぐに後悔することになる。バイトで入った当直の疲れが、翌日から丸2日間は取れなかったからだ。それでも辞めることはできなかった。当時の院長が、満面の笑みを浮かべて「中川先生が来てくれると3日間連続、家で眠ることができるんだ」と言ったからである。

当時、札幌徳洲会病院は臨床研修病院として“空白の10年”とも呼ばれる時期にあった。2006年に2人の内科医が退職したことをきっかけに、救急病院としてのシステムが徐々に崩壊し、悪循環から脱することができず、2008年までに16人いた内科医が6人にまで減少した。

救急対応ができる医師はいなくなり、研修医も1年に1人かまったく入らないほどで、当時の院長は2日に一度の当直をこなしながら1人で救急対応をするような非常事態を何年も続けていたのだ。

そんな時期に偶然、非常勤として関わることになった中川氏は、何年にもわたり過酷な勤務を続けている院長の現状に衝撃を受け「辞める」という選択肢を失った。やがて当直明けに回診をしたり、気になる患者にテニスの前に会いに行くようになった。そのうち、看護師が回診について来たり、研修医が自分を待っているように。着替え、歯ブラシ、シャンプー……と、少しずつ病院に置く物が増えて滞在時間が長くなり、気付けば常勤となって名札には「医長」と書かれていた。

その後院長は退職し、中川氏は一人医長としてプライマリ科に残ることになった。

当時の心境を中川氏は「正直に言って、苦悩した」と明かす。

「プライマリ・ケア医としての知識も経験も不足していたし、自分が残るよりもいっそのことプライマリ科をつぶして自分が去った方が、患者や病院のためになるのではと何度も考えました」

必死にあがく中で、少しずつ研修の機会を得たり、プライマリ科に残りたいと言ってくれた研修医との出会いなど、周囲に人材が集まってくるようになった。自宅へは年に数回帰るだけで、ほぼ病院に泊まり込むほど仕事に没頭する中で、やがてプライマリ科は組織として大きく成長していった。

初めは一人医長だったものが2017年にはプライマリセンターに発展。年間約5,000台の救急搬送と約5,000人の外来受診、約1,500人の入院患者の診療を担うまでに成長した。医師の数も常勤・非常勤・研修医を含めて20人前後が名を連ねるようになった。研修医がゼロの研修委員会委員長を任されたときには、思いも寄らなかったことだ。

働き方改革は 病院単位ではなく地域で

プライマリ科を成長させると同時に取り組んだのが、医師の働き方改革だ。働き方改革はこれ以降、中川氏が人生をかけて取り組むテーマの一つとなる。札幌徳洲会病院ではメディカルクラークの導入と外国人医師の採用に挑戦し、医師不足を解消した。

メディカルクラークの導入は医師の業務負担を大幅に改善した。2年間で医師の労働時間のうちデスクワークが占める割合は59%から23%へと大幅に減少した他、主な診療疾患の退院時情報提供書の記載割合も40%から93%へと増加した。また医師の勤務時間は週60時間以下になった。

外国人医師の採用では2015年に韓国人医師を採用。その際、中川氏は感謝の気持ちを伝えようと韓国語を学んだら、相手の日本語の方がはるかに堪能だったというエピソードを披露するなど、異国へ来る医師や送り出す現地の家族にまで思いをはせて迎え入れる。こうした姿勢が口コミで広がり、その後も海外から入職する後輩たちが後に続いた。

また、働き方改革では「病院単位ではなく地域で行うべき」という持論を展開する。

「9時から17時までは地域の先生や各科の先生方が活躍し、専門的な医療を提供する。そして、それ以外の時間外診療は私たちが責任を持って引き受ける。これによって専門の先生たちは時間内に診療を完結し、医療水準を高く保つことが可能になるのです」

この他にもプライマリセンターは、海外に挑戦したり、人生の岐路で羽を休めたりする医師のハブ空港としても存在感を放ってきた。

「国境なき医師団に所属したり留学したり、あるいは妊娠・出産をしたり仕事に燃え尽きたり……。人生の岐路に立つ先生たちが立ち寄れるハブ空港として、医師人生を応援する場でありたいと願っていました」

チーム医療を成功させるための 新たなリーダー像を体現

プライマリセンターを軌道に乗せて多くの救急患者を受け入れる体制を整えた他、若手の育成や海外研究・臨床留学をサポートする仕組みの構築にも尽力した功績が買われて、2018年には札幌徳洲会病院副院長に就任。病院経営全体に関わる立場になった。

女性で若くして副院長という肩書きを持つなど、経歴だけを見ると強いリーダーシップを発揮する人物なのかと想像したくなる。しかし実際の中川氏は「縁の下の力持ち」という言葉が誰よりも似合う人物だ。自分は黒子に回って、どうすれば周囲の人たちが輝けるかと知恵を絞る。

「常に周囲のメンバーに恵まれていたからこそ、ここまでやってくることができたという思いが強くありました。組織では、優秀な人たちが集まることで、かえってぶつかり合ってうまくいかないことがあります。私の場合はそれとは正反対です。私自身、できないことが多いからこそ、助けようという気持ちを持った利他的な人が集まってくれたのだと感じています」

中川氏がトップダウンタイプではなく、周囲のスタッフを輝かせることに注力するタイプのリーダーだったからこそ、多くの優秀なスタッフが集まり強力なチームへと成長したのだ。その様子を北海道のご当地グルメであるスープカレーになぞらえる。

「ベースの味は決まっていても、後は、季節に合った具材を生かす。肉がメインのときもあれば、野菜がメインのときもあります。季節外れの具材を求めて、身の丈に合わない無理をするより、今ある具材に感謝したい。チームをつくるに当たっては、スープカレーのように、旬のものにときめきたいと思っています」

自分自身を徹底して客観視するがゆえに生まれた劣等感があるからこそ、多くのスタッフの心をつかむリーダーになれたのかもしれない。

「周囲に集まってくれる優秀な人たちと自分とを比べてずっと悩んできました。しかし今では、できないことが多かったことが私の1番の強みなのかもしれない、と考えています。完璧ではないリーダーだったからこそ、たくさんの人が手を差し伸べてくれたと思うからです」

JR札幌病院に移り 次なるステップを目指す

一つの組織をまとめあげ、次なる挑戦の場として2021年7月からはJR札幌病院プライマル科の科長に就任した。一人の臨床医に戻って、かねて交流のあったJR札幌病院でプライマリセンターの“弟分”ともいえるプライマル科を立ち上げる考えだ。

救急診療においては徳洲会時代と同じ方向性で、救急搬送困難事案として問題になりやすい症例の受け入れに尽力する。また、発熱症例や濃厚接触者などCOVID-19の疑似症例も積極的に受け入れる。当番日には20~30台の救急車を受け入れるが、それ以外の日は“病院にあるセブンイレブン”を目指して7~23時の受け入れを目標としている。

「今は救急車を受け入れる流れを多くの看護師に経験してもらい、各病棟が救急受け入れに慣れつつ、病院として救急医療を知るための時間だと考えています」

入院診療では各病棟に救急用として2床ずつ借りて患者を受け入れる。これによって院内全体に、プライマル科として受け入れる症例、つまりは札幌市で搬送が困難になる症例がどのようなものかを実感してもらう効果が期待できる。

「私自身も各科の先生方とコミュニケーションを取りながら、各病棟の特徴や病院組織の文化を学ぶことができます。JR札幌病院は100年以上にわたって地域の医療を牽引してきた病院ですから、まずは病院の文化と歴史を学んだうえで、良い部分は残し、新たに何を築けばいいのかをしっかり見極めたいと思っています」

急がずに、学びながらじっくりと自らの役割を見定める方針だが、変化は少しずつ訪れている。

「多くのスタッフに救急を受け入れることを経験してもらう中で、救急に興味を持って、非常に高いモチベーションで取り組んでくれる看護師が増えてきました。また、自分から手を挙げてリーダーになり立派に育ってくれた人が出たことは何よりの喜びです」

活躍のステージを新たな場所に移しても、周囲の力を引き出すチーム医療のあり方や医師が自分らしく働ける環境づくりは不変のテーマだ。

「医療者の良心が搾取されず、自らの夢に素直に正直でいられるような、そんな時代への道のり、歴史の一部になれたらと願って、これからも挑戦を続けていきたいと思っています」

P R O F I L E
プロフィール写真

JR札幌病院 プライマル科 科長
中川 麗/なかがわ・うらら

2005 東海大学医学部医学科 卒業、医療法人渓仁会 手稲渓仁会病院 初期研修
2007 同上 手稲渓仁会病院 総合内科
2012 医療法人徳州会 札幌徳洲会病院 プライマリ科
2018 同上 札幌徳洲会病院 プライマリセンター長 (総合診療科主任部長)兼 副院長
2021 JR札幌病院 プライマル科 科長

資格

日本内科学会認定内科医・総合内科専門医
日本プライマリ・ケア連合学会 プライマリ・ケア認定医・指導医
日本病院総合診療医学会総合診療認定医
臨床研修指導医
臨床研修プログラム責任者
日本専門医機構認定「総合診療領域」プログラム統括責任者
日本病院総合診療医学会評議員

座右の銘: 人事を尽くして天命を待つ
愛読書: Michael Endeの本
影響を受けた人: たくさんの人。
影響を受けやすいので(笑)
マイブーム: 素直に正直に楽しむ
マイルール: 今を生きる
宝物: 過ごしてきた時間

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2022年9号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。