たった一人のプライマリ科から プライマリセンターに発展
2010年、札幌徳洲会病院で非常勤の救急当直を開始した当時、中川氏は“人生の迷子”になっていた。
初期・後期研修を終えた後も専門科や常勤先を決められず、医局に属することもなく、研修医時代から成長を見守ってくれた患者ごと受け入れてくれたクリニックで、細々と学びつつ働いていた。北海道大学教育学部修士課程に籍を置き、キャンパス内の小川のほとりで10歳年下の同級生たちとテニスをするなど「現実逃避まっしぐら」の毎日だった。
そのような日々を数カ月ほど過ごし、ひとしきりキャンパスライフを満喫したある日の外来でのことだ。3回ほど挿管した患者が中川氏に向かって「あんなに(挿管の)練習をさせてあげたのに、もう救急当直しないの?先生は救急とか病棟にいた方が似合っていると思うよ」と笑った。
この言葉は胸に刺さった。自分が医師としての使命から逃げているような後ろめたさを感じ、慌てて救急当直のバイトを開始した。このとき、たまたまバイト先に選んだのが札幌徳洲会病院だ。
しかし久しぶりに救急診療を始めたのはいいものの、すぐに後悔することになる。バイトで入った当直の疲れが、翌日から丸2日間は取れなかったからだ。それでも辞めることはできなかった。当時の院長が、満面の笑みを浮かべて「中川先生が来てくれると3日間連続、家で眠ることができるんだ」と言ったからである。
当時、札幌徳洲会病院は臨床研修病院として“空白の10年”とも呼ばれる時期にあった。2006年に2人の内科医が退職したことをきっかけに、救急病院としてのシステムが徐々に崩壊し、悪循環から脱することができず、2008年までに16人いた内科医が6人にまで減少した。
救急対応ができる医師はいなくなり、研修医も1年に1人かまったく入らないほどで、当時の院長は2日に一度の当直をこなしながら1人で救急対応をするような非常事態を何年も続けていたのだ。
そんな時期に偶然、非常勤として関わることになった中川氏は、何年にもわたり過酷な勤務を続けている院長の現状に衝撃を受け「辞める」という選択肢を失った。やがて当直明けに回診をしたり、気になる患者にテニスの前に会いに行くようになった。そのうち、看護師が回診について来たり、研修医が自分を待っているように。着替え、歯ブラシ、シャンプー……と、少しずつ病院に置く物が増えて滞在時間が長くなり、気付けば常勤となって名札には「医長」と書かれていた。
その後院長は退職し、中川氏は一人医長としてプライマリ科に残ることになった。
当時の心境を中川氏は「正直に言って、苦悩した」と明かす。
「プライマリ・ケア医としての知識も経験も不足していたし、自分が残るよりもいっそのことプライマリ科をつぶして自分が去った方が、患者や病院のためになるのではと何度も考えました」
必死にあがく中で、少しずつ研修の機会を得たり、プライマリ科に残りたいと言ってくれた研修医との出会いなど、周囲に人材が集まってくるようになった。自宅へは年に数回帰るだけで、ほぼ病院に泊まり込むほど仕事に没頭する中で、やがてプライマリ科は組織として大きく成長していった。
初めは一人医長だったものが2017年にはプライマリセンターに発展。年間約5,000台の救急搬送と約5,000人の外来受診、約1,500人の入院患者の診療を担うまでに成長した。医師の数も常勤・非常勤・研修医を含めて20人前後が名を連ねるようになった。研修医がゼロの研修委員会委員長を任されたときには、思いも寄らなかったことだ。