世界初の治療法で日本の未来を切り拓く 次世代がん医療のトップランナー 中沢 洋三

医師のキャリアコラム[Challenger]

信州大学医学部 小児医学教室 教授/信州大学遺伝子・細胞治療研究開発センター長

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/田口素行 撮影/小山英樹

信州大学医学部小児医学教室。三大がん治療(手術、薬物、放射線)に次ぐ、第四の治療法である免疫療法。その一つであるCAR-T(カーティー)細胞療法の研究で、今、世界から大きな注目を浴びている。ウイルスベクターを使わず、安全・安価に提供できる“酵素”を使用した世界初の画期的な治療法、【非ウイルス遺伝子改変CAR-T細胞療法】である。難治性がんと闘う子どもたちを救う切り札であり、遅れていた日本の研究開発を大きく前進させるものだ。研究グループを率いるのは中沢洋三教授。【非ウイルス遺伝子改変CAR-T細胞療法】誕生の軌跡を辿りながら、日本の研究開発の未来を切り拓く中沢氏の流儀に迫った。

国内トップクラスの病院が太刀打ちできない悔しさ

2021年4月7日、信州大学で世界初の【非ウイルス遺伝子改変CAR-T細胞療法】を用いた急性骨髄性白血病、および若年性骨髄単球性白血病の患者を対象とする医師主導治験がスタートした。

「もう、治療法はない」

そう宣告された白血病の子どもたちに、今、新たな希望の光が差している。

開発したのは信州大学医学部小児医学教室の教授、中沢洋三氏。

「臨床応用というゴールに向かって、ようやくスタート地点に立つことができました」

その壮大な挑戦の最前線に辿り着くまでには、数々の試練が待ち受けていた。

旭川医科大学を卒業後、地元に戻り信州大学の小児科に入局。そんな医師になって間もない頃に最初の転機が訪れる。

病棟の廊下で中学時代の恩師と偶然再会した中沢氏は、久しぶりの顔に笑顔で声を掛けた。

「娘さんが入院されているということでした。詳しい事情を聞かずその場で別れ、後で病室を調べて顔を出したんです。娘さんもお母さんも沈痛な面持ちでした。白血病の再発で、骨髄移植のドナーが見つからないエンドステージだったんです」

白血病治療における国内トップクラスの病院でも全く太刀打ちできない。その現実に強い衝撃を受けた。「自分が何とかしたい」。中沢氏は血液腫瘍の道に進むことに決める。

数年後、若き中沢氏は血液・腫瘍グループのトップに抜擢された。時を同じくして、白血病治療は臍帯血移植や新薬の登場によって、飛躍的に治療成績が向上し、同院での移植件数は以前の3倍にも伸びる。まだ30代前半。うぬぼれも生まれた。そんなとき、骨髄移植が成功して退院した少女が白血病の再発で戻ってくる。

「移植による合併症で命を落とすことがなくなった代わりに、再発数が増えたんです」

残された治療法はなかった。再発で命を落とした少女の父親は、中沢氏に英字の記事を見せながら「アメリカでなら治せたのに」と訴えた。

「自分でもそれに気付き始めていたんです。だから余計に悔しくて」

アメリカではがんの新たな治療法である遺伝子治療の研究開発が盛んに行われていたが、当時の日本は違った。

「日本では研究開発で世界からどんどん後れを取っている状況でした。いまでこそオプジーボは認知されていますが、当時、日本における免疫療法はトンデモ医療の部類。海外で遺伝子治療の事故が起きた影響もあり、日本ではタブーとなっていました」

2007年、中沢氏は新たな治療法を求め、米国ベイラー医科大学に留学。そこで出合ったのがCAR-T細胞療法である。

「そんなものはゴミ箱行きだ」「あれはインチキだ」

「なんだ、これは!」

顕微鏡を覗き込むと、一目瞭然の圧倒的な世界があった。

「脳腫瘍の細胞にCAR-T細胞を振りかけて翌朝、顕微鏡を覗くと、がん細胞が全て焼け野原のように消えていたんです。がん治療の歴史が変わると確信しました」

当時、CAR-T細胞の研究では導入効率の高いウイルスベクターを使用する方法が成果を上げていた。だが、その頃の日本は遺伝子治療への忌避感が強く、感染性のあるウイルスベクターを日本に持ち帰るには数々のハードルがあった。

そんなときに出合ったのが、とある研究者が売り込みに来ていた「piggyBacトランスポゾン法」というアオムシ由来の“酵素”を使用した遺伝子導入法だった。誰も見向きもしない中、中沢氏だけは違った。

「これだ!と思いましたね。ボスから与えられた研究テーマをこなしつつ、並行して酵素を使用した研究も始めました。全然上手くいかなくて、ボスからは『そんなものはゴミ箱行きだ』と何度も言われました」

だが、中沢氏にはわずかながらも可能性が見えていた。何度も微調整を繰り返すうち、徐々に成果が出始める。やがて同僚たちも興味を示したが、中沢氏が小児科医として培ってきた薬剤調整の緻密なさじ加減は誰も真似できなかった。

「いくら教えても誰も再現できないから、同僚たちからは『あれはインチキだ』と言われました。ただ、ボスはちゃんと僕の研究を評価してくれていた。『この研究は誰も引き継げないし、持って帰りなさい。日本でちゃんと評価されるはずだ』と、特別に持ち帰りを許可してくれました」

日本の遺伝子治療のタブーを取り払ったCAR-T細胞療法

帰国後は信州大学の小児科・助教として復帰。関連病院に勤務しながら、仕事が終わると大学の研究室に立ち寄り、持ち帰ってきた研究を続けた。気が付くといつも深夜0時を過ぎていた。週末は自費で東京に行き、さまざまな企業に研究成果を売り込みに行った。

「それだけこの研究には自信がありました」

だが、相手の反応は全く違った。話は聞いてくれるが、決まって最後は「うちでは難しいですね」。学会で発表しても誰も真剣に聞いてはいない。ガラガラの会場で、一人だけ熱心に話す自分がいる。だが、それ自体は辛いことでも何でもなかった。

「辛かったのは、絶対に良くなると自信のある薬がすぐ近くの実験室にあるのに、患者さんには『もう、治療法はありません』と、言わなければならなかったこと。希望がすぐそばにあるのに与えることができないもどかしさがありました」と、中沢氏は言葉を詰まらせた。

帰国して3年が経った頃、時流が一気に動いた。アメリカの複数の研究施設から、「臨床試験によりCAR-T細胞療法に高い治療効果が認められた」という発表が世界を駆け巡る。

「アメリカの血液学会でその報告を聞いた日本人が、帰国後、インターネットで調べて日本語で唯一ヒットしたのが、信州大学医学部の広報誌に書いた僕の記事だけ。日本ではそれまでCAR-T細胞のことが全く知られていなかったんです」

ちなみに、CAR-T細胞療法やそれに関わる「キメラ抗原受容体」といった日本語名称は全て中沢氏が命名したものである。

時を同じくして京都大学の山中伸弥氏がノーベル賞を受賞。これによって遺伝子治療が国策へと変わる。研究者、医薬品、バイオ企業のトップらが次々と中沢氏の元を訪れるようになり、学会に行けば常に立ち見が出るほどの盛況ぶりに。日本医療研究開発機構(AMED)が設立され、研究開発の支援も得ることができた。

2020年4月、中沢氏は研究仲間と共に、医師主導治験後の企業治験(第II相試験)に向けた準備や資金調達を担う信州大学発のバイオベンチャー企業「(株)A-SEEDS」を立ち上げ、事業化を一気に加速させる。

日本の研究開発を、大きく前進させる世界初の治験へ

そして2021年4月7日。ついに世界初の【非ウイルス遺伝子改変CAR-T細胞療法】による医師主導治験がスタートした。

この治験は、“オールイン・ワン型創薬モデル”であることでも注目を集めている。信州大学でシーズ開発から、製造、管理、そして治験までを単一アカデミアで一貫して行う。簡便かつ低コストで高性能な製造を実現したこのモデルは、日本の研究開発の発展にも大きく貢献するものだ。

「研究開発と実用化までの間は“死の谷”と呼ばれており、それを乗り越えるには莫大なお金と高規格の施設が本来は必要。しかし非ウイルス遺伝子改変CAR-T細胞は、酵素を使用しているため感染リスクもなく、コンパクトな機器によってコストもウイルスベクターの約10分の1に抑えられます」

2022年5月には、婦人科悪性腫瘍に対する治験も開始。他にも複数の治験準備や企業との共同研究が進行している。

治験は研究と異なり、一気にリアルな世界となる。たとえ安全性の承認が下りていても、患者を目の前にした臨床医になれば、さまざまな不安が束になって襲ってくる。

「これを投与したら症状がより悪化してしまうかもしれない。安全であっても全く効かないのではないか。そんな不安が常にある。明け方にうなされて起きることも度々あります」

さらに治験が始まったことで、多くの患者からメールが来るようになった。「もう、治療法がない」。そう宣告された患者たちからの、わらにもすがる思いの問い合わせである。だが、治験には限られた条件や人数制限がある。

「申し訳ありませんが、今回の治験では対象外です」

とてもすぐには返信できない。患者やその家族たちの思いは痛いほど分かる。治験業務の中で一番辛い仕事だからこそ、中沢氏はこの役割を他の誰にも託さない。

試練はどこまでも続く。研究開発には、乗り越えても乗り越えても、新しい壁が立ちはだかる。辛くて全てを投げ出したい瞬間もあるが、中沢氏は踏みとどまる。自分が投げ出した瞬間、難治性がんの患者だけではなく、日本の希望も終わってしまうからだ。

「日本は研究開発で世界に大きく後れをとる中、今やっと僕たちの新たな治療法が世界から注目されている。待っている患者さんが目の前にいる以上、ここで研究をやめるわけにはいきません。この非ウイルス遺伝子改変CAR-T細胞療法は世界唯一の技術。日本のラストチャンスなんです」

「もう、治療法がない」子どもたちにもう一度、治療のチャンスを

中沢氏のストレス解消法は、夜、ビールを飲みながら新しい研究のアイデアを考え、研究仲間とチャットでやり取りをすることだ。

「いいことを思いついた!という、その瞬間が本当に楽しいんですよね」

思いもかけない成果は楽しむことから生まれる。研究では人手が足りないため医学生たちも参加しているが、中沢氏は彼らに新しい研究のアイデアをどんどん任せることにしている。

「これからの日本の医療を担う後進たちには、一番面白いことをしてもらいたいんです。翌朝、顕微鏡を覗くあの楽しさを知ってほしい。失敗は問題ではありません。ネガティブデータであっても自分の考えが間違っていたことが分かる。それが研究を前進させるんです」

研究開発から臨床応用に至るまでの道は遥かに長く、大きな壁を乗り越えても、ほんのわずかしか前進しない。だが、どんなに小さな一歩であっても、その積み重ねが世界を変え、未来を創る。

中沢氏は外来で、20年以上の長い付き合いになる患者も診ている。「もう、治療法がない」と言われ、亡くなっていった子どもたちと同室で過ごしてきた患者たちだ。今はみな大人になっている。彼らを診る度に、亡くなっていった子どもたちを思い出し、「今の自分なら助けられるはずだ」と悔しさがよみがえる。

そして今、「もう、治療法がない」と宣告された難治性がんの子どもたちに、新たな治療のチャンスが生まれようとしている。それはまだほんの小さな希望かもしれない。だが、中沢氏は確信に満ちた声で言う。

「臨床応用というゴールはまだまだ遠くにある小さな光。でも、この目にはっきりと見えています」

P R O F I L E
プロフィール写真

信州大学医学部 小児医学教室 教授/信州大学遺伝子・細胞治療研究開発センター長
中沢 洋三/なかざわ・ようぞう

1989 長野県立上田高等学校 卒業
1996 旭川医科大学医学部 卒業
信州大学医学部附属病院 小児科
1997 長野赤十字病院 小児科
1999 信州大学医学部附属病院 小児科
2003 信州大学大学院 修了 博士(医学)
2004 信州大学 小児医学講座 助手
2007 米国ベイラー医科大学 留学
2009 信州上田医療センター 小児科
2011 信州大学附属病院 小児科 助教
2014 信州大学附属病院 小児科 講師
2016 信州大学 小児医学教室 教授
2019 信州大学「卓越教授」に選出
信州大学遺伝子・細胞治療研究開発センター(CARS) センター長就任

所属学会

日本小児科学会(代議員)
日本小児血液・がん学会(評議員)
日本血液学会(評議員)
日本造血細胞移植学会(評議員)
日本遺伝子細胞治療学会(評議員)
日本血液疾患免疫療法学会(理事)
日本小児がん研究グループ(理事)
米国血液学会
米国遺伝子細胞治療学会
国際細胞治療学会

専門

座右の銘: 七転び八起き
愛読書: 特にありません。新聞をよく読みます。
影響を受けた人: 留学先のボスのRooney教授です。
マイルール: 早く帰る、ビールを飲みながら夕飯を作る、早く寝て早く起きる。
宝物: 家族

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2023年1号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。