日本と紛争地を行き来し、世界中の患者と向き合う血管外科医 小杉 郁子

医師のキャリアコラム[Challenger]

福井県済生会病院 血管外科 医長

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/佐藤恵 撮影/太田未来子

福井県済生会病院の血管外科医長として多忙な日々を送りながら、国境なき医師団(MSF)の一員として世界各地で医療活動を続ける小杉 郁子氏。2008年、ナイジェリアはリヴァーズ州の州都ポートハーコートへの派遣を皮切りに、イエメン、南スーダン、カメルーン、パレスチナと、5カ国計6回の活動に参加している。医療設備も十分ではなく、言語や文化の壁もある土地で人々の命を預かる仕事を行う源には、医師としての原点に立ち返る貴重な経験と、生きようとするエネルギーに満ちた患者との出会いがあった。小杉氏のこれまでの歩みと派遣先での印象的な出来事、また今後について伺った。

過酷な日々を生きる若者が伝えてくれた真っすぐな思い

紛争地では、外科医の需要が高い。初回の派遣地ポートハーコートでは1950年代に油田開発が始まり、石油産業の拠点でもあったことで、オイルマネーをめぐる暴動や事件、事故が多発していた。ある日、小杉氏が勤務する病院に一人の若い兵士が運ばれてきた。利き腕を銃で撃たれたことによる肘周囲の開放骨折と動脈損傷。動脈再建を試みるもすぐに閉塞、腕を90度に固定して治療することで骨折は治癒するものの、固定したまま元には戻らない。不自由な体を抱え、兵士としての職を失うことが、この地で生きる彼の人生にどう影響するかは想像に難くない。しかし手術の翌日、彼は小杉氏に言った。「治療してくれて、ありがとう。ドクターの仕事を尊敬します」と。

「治療がうまくいかないと悲しんだり苦しんだり、つらさを表に出す人が多い中、自分の人生がどうなるか分からない彼が、そう言ったんです。気丈で、すごいなとびっくりして。こちらこそ、お礼を言いたい気持ちになりました」

その日を生きることに精いっぱいで、明日の保証はない。そんな過酷な日々を生きる若者が伝えてくれた真っすぐな思いが、MSFの一員として活動を始めたばかりの小杉氏を奮い立たせた。日本で血管外科医として働きながら、途上国での医療活動を行う決意が固まった。

シンプルさが魅力で選んだ血管外科 広い世界を見てみたいとドイツへ

父が外科医だったことで、幼い頃から将来は医師になるものという周囲からの圧力を感じていた小杉氏。学生時代は、なぜ他人に自分の道を決められなければならないのかという疑問が渦巻いていた。獣医になりたいと思ったこともあったが、それも小さな抵抗だったのかもしれないと振り返る。

「勉強しようと思ってたのに、『宿題をやりなさい』と言われるとやりたくなくなる感じが、ずっと続いていましたね」

長い“あまのじゃく”期を経て勉強に本腰を入れ、金沢大学医学部に入学。卒業後、同大学の第一外科に入局した。一般外科を一通り経験し、最終的に血管外科に決めたのは消去法だったという。

「がんの患者さんの場合、手術後もライフスタイルを把握した上で化学療法を考えたり、ご家族とも多くのコミュニケーションを取りながら気持ちに寄り添った医療を行います。共感しすぎてもダメ、共感しなさすぎてもダメで、それが私には荷が重かった。その点、血管外科はパターンさえつかんでしまえば比較的シンプルなので、向いていると思いました」

医師も人間なので、向き不向きは当然ある。血管外科に進むと決めた頃は、大きなチームで大動脈瘤の手術など難度の高い一線級の手術を行うことを目指していたが、どうやらそれも自分には合わないと思い始めていた。また、北陸では心臓血管外科医が少なく、知識を得て技術を高めるためには限られた先輩に教えを乞う徒弟制度を免れない。そこから一歩踏み出して、自分の色を出すにはどうすればいいのか。行き詰まりと閉塞感を打開する一手を模索する中、ある先輩からドイツ留学の話がもたらされた。新しい環境で技術を磨き、広い世界を見てみたい。小杉氏は迷わずドイツ行きを決めた。

日本での当たり前を覆され多様な医療者に刺激を受ける

2005年、ドイツのデュッセルドルフ大学病院の血管外科・腎移植科に留学した小杉氏は、手技に定評のある職人気質の教授の下で学ぶことになった。血管外科医を目指す若手から教授クラスまで、スキルも国籍も異なる15~16人の研究室には女性医師も複数在籍し、日本との環境の違いを強く感じたという。また当時、日本での勤務では時間外労働は当たり前で、土日も関係なくオンコール勤務が課されていたが、ドイツでは徹底した当番制で、当直の翌日は終業時間きっかりに退勤する。

「『時間外労働をするのは能力のない証拠だから』とはっきり言われました。仕事への考え方は影響を受けましたね」

同じ研究室には、カメルーンからの留学生もいた。もともと一般外科医で、祖国に血管外科の病院を作りたいという思いを抱いてドイツに来たのだという。自身のスキルアップだけでなく、国のためというロングビジョンを持って挑むモチベーションの高さに圧倒され、小杉氏は蒙を啓かれた。実は、その留学生には後日談がある。2021年、MSFとして小杉氏が4回目の派遣地・カメルーンにいたときのこと。インターネットで文献を探していたところ、偶然彼の名前を見つけた。

「血管外科に関する論文が掲載されていたんです。あの時の思いを持ち続けて、ずっと頑張っていたのだと知れてうれしかったし、励みになりました」

2年間のドイツ留学を終える頃には教授から現地で就職しないかと誘われたが、ドイツ国籍でもない、EU出身者でもない日本人医師に門戸は開かれなかった。それでも海外でスキルを生かしたい、途上国の医療を見てみたいと思っていた矢先、MSFのことを知り、すぐに応募した。しばらくすると登録され、待機していたところナイジェリア行きのオファーが来た。そして2008年2月、ポートハーコートでの活動に初参加することとなる。

冒頭のエピソードにもあるようにポートハーコートは政情不安で、人々は貧富の差に苦しみ、医療体制も不十分だった。小杉氏の派遣された病院では、医療機器は画質の粗いレントゲンしかなく、血液検査をしても貧血くらいしか分からない。エビデンスありきの医療行為が用をなさないことに愕然とした小杉氏は、いかにこれまで検査に頼っていたかを痛感した。

「日本の病院では、オーダーを出せば検査結果が出る。それに慣れ切ってしまっていたんですね。検査機器があるから治療できていただけなんじゃないか、なかったら何ができるのか。恐い気持ちもありましたが、やるしかないと思いました」

現地では、わずかな情報をもとに診断をし、治療方針を組み立てる。手術をすべきか、しばらく様子を見るべきなのか、知識と経験を総動員して熟考する。一つの答えを導き出しても、正解かどうかを確かめる術はない。それでも治療を進めるのか――。小杉氏は、医師としての“第六感”を武器にした。

「どんな仕事でも、『何かイヤな感じがする瞬間』ってあると思うんです。それと同じで、この治療法でいこうと思ったのに迷っているということは、もしかしたら違うのかもしれない。じゃあ、他に選択肢があるとしたら何か。そんな風に一つ一つ考えていきました」

検査機器や薬剤に頼らず、母語ではない言葉で専門用語を駆使してコミュニケーションを取り、宗教や文化の違いを尊重しながら治療を進める。日本で使うのとは異なる脳の引き出しを開けるような日々は、医師の仕事の原点を見つめることにもなった。その最たるものが、身体所見の重要性。検査ができない分、患者の体に触れて、どこがどう痛いか、いつから痛いのかを時間を掛けて細かく聞いた。日本では、早く検査をし、早く診断を付けて、早く治療をすることが求められるが、それは、科学の力を信じている=頼っているから可能なのだと小杉氏は言う。

「日本に帰ってくると、待ち時間を気にして効率重視になりがちなので、患者さんともっと向き合う時間を持ち、もっと優しく接するべきだと反省します」

“常識”を手放したおかげで、日本ではまず目にすることのない銃創を見ても動揺はしなかった。

「銃弾は体内を真っすぐ貫くようなイメージかもしれませんが、そうじゃない。体の中で不規則な軌道を描いて外に出てくるので、意外なところが傷むことがあるんです。だから、(体を)開けてみないと分からない。驚いている時間はありません」

医療途上国では、ないものがあまりに多い。「あれがない」「これがあれば」など細かいことを考えず、ひたすら頭を働かせ、手を動かすしかない。必要なのは、体力と鈍感力だと気付いた。

「いろんなことを気にしすぎると、自分がつぶれてしまいますから。私はもともと鈍感力を持っていたみたいで、大丈夫でした。日本の医療は何もかもが手厚く、一つのことに特化して突き詰めることを求められます。でも、一期一会で互いにリスペクトし合ったり、大事に思い合ったりして治療を進めていく現地での活動が自分には向いているんですよね」

また頑張ろうと思わせてくれるレベルが一つ高い「ありがとう」

患者が亡くなることも珍しくはなく、忸怩たる思いをすることはある。しかし、やるべきことをやったと思えるのは、その都度医師として持てるものを全て注ぎ込んでいるからかもしれない。その姿勢を患者が見てくれていると感じたことがある。3回目の派遣地である南スーダンの医療施設に、無差別発砲による傷を負った13歳の女の子が搬送されて来たときのこと。1回目の手術がダメージコントロールに終わり、母親に再度手術が必要だと告げると、「どんな結果になってもあなたを責めません。治療してくれてありがとう。神が祝福してくれるでしょう」と言われた。

「『ありがとう』のレベルが一つ高いんですよね。そういう表現で感謝されることが、日本ではなかなかないから本当にうれしいですし、また頑張ろうという気持ちになります。その後、女の子は元気に退院しました」

既存の枠からはみ出るようなフレキシブルなドクターが必要

医師の中には、MSFの活動に特化する人もいる。小杉氏は、この活動に向いているという自覚を持ちながらも、あくまで軸足は日本に置いている。

派遣先では、いつ、どんな患者が、どのくらい運ばれてくるかは分からない。患者が来ないのは社会情勢が穏やかである証拠なのだが、それでは外科医としてのスキルが鈍ってしまう。一方、日本ではコンスタントに手術を行い、新しい知識や情報を得ながら外科医としてのスキルアップができる。常に行き来することで、日本で培ったスキルを派遣地で生かし、派遣地での特別な「ありがとう」をエネルギーに変えて走り続けるといった、自分の中での好循環が生まれていると語る。

もともと1カ月の短期派遣を中心に参加していたが、コロナ禍で自主隔離を含めた派遣期間が2~3カ月と長期化した。海外派遣については勤務先の理解が必須であり、個々の組織の事情など課題は山積するものの、容認する医療機関も出てきている。小杉氏は“枠からはみ出る”ことの必要性を感じている。

「これからの時代は柔軟性が大事。みんながみんな専門性に特化したスーパードクターを目指す必要はなく、海外で活動する、他の人が知らないことを知っているなど、いろんな経験を持つフレキシビリティの高い医師が活躍できると思います。多少、枠からはみ出ることがあっても、それが強みになるのではないでしょうか」

小杉氏はこれからも日本と海外での医療活動を通じてスキルアップとエネルギーチャージを繰り返しながら、世界中の患者と向き合っていく。

P R O F I L E
プロフィール写真

福井県済生会病院 血管外科 医長
小杉 郁子/こすぎ・いくこ

1994 金沢大学医学部卒業、同大・心肺総合外科(旧:第一外科)
2001 金沢医療センター血管外科
2004 金沢大学医学部附属病院 心肺総合外科 助手
2005 ドイツ・デュッセルドルフ大学病院 血管外科・腎移植科留学
2008 2月〜3月のナイジェリア(ポートハーコート)で国境なき医師団(MSF)初参加
4月 金沢大学医学部附属病院、7月 砺波総合病院 心臓血管外科
2015 福井県済生会病院 血管外科 医長
2016 7月~8月 MSFでイエメン(アデン)へ
2018 7月~9月 MSFで南スーダン(ベンティウ国連文民保護区/POC)へ
2021 1月~4月 MSFでカメルーン(クンバ)へ
2023 1月~3月 MSFでイエメン(イッブ)へ
4月~ MSFでパレスチナ(ジェニン)へ

専門

血管外科医。末梢動脈疾患、下肢静脈瘤、下肢リンパ浮腫、外傷の治療を得意とする

座右の銘: 義を見てせざるは勇無きなり
ここ数年の間に読んで衝撃を受けた本: 『THE LAST GIRL - イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語-』 ナディア・ムラド著
趣味: 音楽鑑賞・映画鑑賞・旅行・料理
宝物: 特にない(が、あえて言うならば命)

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2023年7号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。