日本での当たり前を覆され多様な医療者に刺激を受ける
2005年、ドイツのデュッセルドルフ大学病院の血管外科・腎移植科に留学した小杉氏は、手技に定評のある職人気質の教授の下で学ぶことになった。血管外科医を目指す若手から教授クラスまで、スキルも国籍も異なる15~16人の研究室には女性医師も複数在籍し、日本との環境の違いを強く感じたという。また当時、日本での勤務では時間外労働は当たり前で、土日も関係なくオンコール勤務が課されていたが、ドイツでは徹底した当番制で、当直の翌日は終業時間きっかりに退勤する。
「『時間外労働をするのは能力のない証拠だから』とはっきり言われました。仕事への考え方は影響を受けましたね」
同じ研究室には、カメルーンからの留学生もいた。もともと一般外科医で、祖国に血管外科の病院を作りたいという思いを抱いてドイツに来たのだという。自身のスキルアップだけでなく、国のためというロングビジョンを持って挑むモチベーションの高さに圧倒され、小杉氏は蒙を啓かれた。実は、その留学生には後日談がある。2021年、MSFとして小杉氏が4回目の派遣地・カメルーンにいたときのこと。インターネットで文献を探していたところ、偶然彼の名前を見つけた。
「血管外科に関する論文が掲載されていたんです。あの時の思いを持ち続けて、ずっと頑張っていたのだと知れてうれしかったし、励みになりました」
2年間のドイツ留学を終える頃には教授から現地で就職しないかと誘われたが、ドイツ国籍でもない、EU出身者でもない日本人医師に門戸は開かれなかった。それでも海外でスキルを生かしたい、途上国の医療を見てみたいと思っていた矢先、MSFのことを知り、すぐに応募した。しばらくすると登録され、待機していたところナイジェリア行きのオファーが来た。そして2008年2月、ポートハーコートでの活動に初参加することとなる。
冒頭のエピソードにもあるようにポートハーコートは政情不安で、人々は貧富の差に苦しみ、医療体制も不十分だった。小杉氏の派遣された病院では、医療機器は画質の粗いレントゲンしかなく、血液検査をしても貧血くらいしか分からない。エビデンスありきの医療行為が用をなさないことに愕然とした小杉氏は、いかにこれまで検査に頼っていたかを痛感した。
「日本の病院では、オーダーを出せば検査結果が出る。それに慣れ切ってしまっていたんですね。検査機器があるから治療できていただけなんじゃないか、なかったら何ができるのか。恐い気持ちもありましたが、やるしかないと思いました」
現地では、わずかな情報をもとに診断をし、治療方針を組み立てる。手術をすべきか、しばらく様子を見るべきなのか、知識と経験を総動員して熟考する。一つの答えを導き出しても、正解かどうかを確かめる術はない。それでも治療を進めるのか――。小杉氏は、医師としての“第六感”を武器にした。
「どんな仕事でも、『何かイヤな感じがする瞬間』ってあると思うんです。それと同じで、この治療法でいこうと思ったのに迷っているということは、もしかしたら違うのかもしれない。じゃあ、他に選択肢があるとしたら何か。そんな風に一つ一つ考えていきました」
検査機器や薬剤に頼らず、母語ではない言葉で専門用語を駆使してコミュニケーションを取り、宗教や文化の違いを尊重しながら治療を進める。日本で使うのとは異なる脳の引き出しを開けるような日々は、医師の仕事の原点を見つめることにもなった。その最たるものが、身体所見の重要性。検査ができない分、患者の体に触れて、どこがどう痛いか、いつから痛いのかを時間を掛けて細かく聞いた。日本では、早く検査をし、早く診断を付けて、早く治療をすることが求められるが、それは、科学の力を信じている=頼っているから可能なのだと小杉氏は言う。
「日本に帰ってくると、待ち時間を気にして効率重視になりがちなので、患者さんともっと向き合う時間を持ち、もっと優しく接するべきだと反省します」
“常識”を手放したおかげで、日本ではまず目にすることのない銃創を見ても動揺はしなかった。
「銃弾は体内を真っすぐ貫くようなイメージかもしれませんが、そうじゃない。体の中で不規則な軌道を描いて外に出てくるので、意外なところが傷むことがあるんです。だから、(体を)開けてみないと分からない。驚いている時間はありません」
医療途上国では、ないものがあまりに多い。「あれがない」「これがあれば」など細かいことを考えず、ひたすら頭を働かせ、手を動かすしかない。必要なのは、体力と鈍感力だと気付いた。
「いろんなことを気にしすぎると、自分がつぶれてしまいますから。私はもともと鈍感力を持っていたみたいで、大丈夫でした。日本の医療は何もかもが手厚く、一つのことに特化して突き詰めることを求められます。でも、一期一会で互いにリスペクトし合ったり、大事に思い合ったりして治療を進めていく現地での活動が自分には向いているんですよね」