国内外を自在に飛び回る“空飛ぶ救急医” 稲葉 基高

医師のキャリアコラム[Challenger]

特定非営利活動法人 ピースウィンズ・ジャパン/「空飛ぶ捜索医療団ARROWS」プロジェクトリーダー/岡山済生会総合病院 救急科(非常勤)

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/横井かずえ 撮影/緒方一貴

自然災害や紛争などで危機にさらされた人を支援する目的で1996年に設立された、日本発のNGOである特定非営利活動法人ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)。そこで医師として活動を続けるのが稲葉 基高氏だ。病院での診療と被災地支援、どちらも中途半端になってしまうことを恐れて専属で活動する決心をしてから約5年。災害救助犬を含む救助チームと共に被災地へ駆け付ける、空飛ぶ捜索医療団ARROWS(アローズ)を立ち上げ、数々の実績を積み重ねてきた。活動の軸を病院の外へ移しても「自分は最後まで医師であり続けたい」と語る稲葉氏に、ソーシャルセクター だからこそできること、やりたいことなどを伺った。 ※社会的課題の解決をする組織。非営利団体だけでなく企業も含める

「10年後に後悔しないよう」 妻のひと言が背中を押した

岡山済生会総合病院の救急科医長として同院の救急医療をもり立てていた2017年頃、知らない人物から1本の電話が掛かってきた。現在、稲葉氏が所属するNGO組織ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)の大西 健丞(けんすけ)代表理事だった。内容は、PWJに初めての医師として参加し、医療部門の立ち上げから関わってほしいという依頼だ。

「PWJはもともとイラクで難民支援を行うために立ち上げられた組織で、日本で最も大きなNGOの一つです。しかし、それまで医師は在籍せず、医療分野の支援は行っていませんでした。そこで医療分野にも活動の幅を広げようと、大西代表が災害人道医療支援会のHuMA(ヒューマ)理事でもあった私の恩師に誰かいないかと相談して、名前が挙がったのが私だったようです」

大西氏から連絡が来たことで、稲葉氏はPWJの名前を初めて知ったという。PWJは国内外で活動の歴史も長く、NGOとしては大きな組織であるが、これまで医療分野では活動してこなかったため、医療関係者の中では知名度が低い。そのため稲葉氏も、電話が掛かってきて活動への協力を求められたとき、何度も断ったという。

しかし、いろいろと調べるうちに組織に興味を覚え「1回だけなら」と話を聞くことに。迎えのヘリコプターに乗り、本拠地のある広島県神石(じんせき)郡にまで出向くことになった。人里離れた山奥の事務所で大西氏から聞いた言葉は熱かった。大西氏は国力が減少する一方の日本を救えるのは行政でもなく民間でもない、第三者であるソーシャルセクターだと語った。そして稲葉氏に「日本を変える仕事を一緒にやってほしい」と熱く繰り返したのだ。

「ちょうど私自身、医師としてやりがいを感じる一方で、日本の医療制度の将来に危機感を覚えていたころでした。特に高齢者などに対して、本当に自分のやっている医療が患者さんを幸せにできているのか確信が持てないでいたのです」

大西氏の話を聞いて、心が揺らいだ。自分がいるべき場所は病院ではないかもしれない、と感じたからだ。しかし周囲の反応は冷ややかだった。また、「40歳手前で、これから自分の城を築いていく時期にもったいない」「クリニックもないところへ医者が行ってどうするのだ」と心配してくれる人もいた。そんなときに、背中を押したのは妻だった。

「今行かなかったらきっと10年後に『あのときチャレンジしていれば良かった』と言うに決まっている。とにかくやってみたら」

この言葉で、決心がついた。心を決めてからは仕事の引き継ぎなどに1年ほどをかけ、晴れて2018年にPWJ初の医師として常勤勤務をスタートした。被災地での活動がない時期は、月曜日は岡山済生会総合病院の救急外来で手術などを担当。火・木曜日はPWJの会議を複数こなし、水曜日は岡山大学病院の救命救急センターで集中治療など、そして金曜日は神石高原町のへき地診療所で働いてから午後はPWJの仕事をする。資金調達やワークショップ主催、人事・リクルート等、勤務医時代に比べて業務内容は多岐にわたるが、家族と過ごす時間は増えたという。

常勤だからこそ可能なこと 空飛ぶ捜索医療団を設立

災害支援を行う医師で、NGOなどに専属で活動するケースは珍しいが、常勤だからこそ腰を据えてじっくり取り組めることも多い。そのうちの一つは、稲葉氏がプロジェクトリーダーとなって立ち上げた空飛ぶ捜索医療団ARROWS(アローズ)だ。ARROWSは医療を軸とした、災害緊急支援プロジェクトである。一秒でも早く被災地に駆け付けるため、ヘリコプターなどの航空機を活用して災害救助犬を含む救助チームを伴って被災地に赴くことから、「Airborne Rescue& Relief Operations With Search」の頭文字をとって、ARROWSと名付けた。

PWJには以前から2機のヘリコプターを活用するレスキューチームがあった。また、がれきの下から生きている人を探し出す災害救助犬や、足場が不安定な場所でロープなどの資材を使って救助を行うロープレスキューができる人材を含むレスキュー隊が活動していた。そこに稲葉氏が加わったことで、ヘリコプターを使って医療活動を含む救助活動を展開する空飛ぶ捜索医療団となった。

メンバーは稲葉氏の他に常勤医師が3人、常勤看護師が7人、医療職以外のメンバーが約10人。また、予備隊として登録している医療者が約300人ほど在籍している。

国内では西日本豪雨や静岡県熱海市の土石流、福島県沖地震など、東日本大震災以降、ほぼ全ての国内大災害に出動。国外の活動ではトンガ沖の火山噴火、ウクライナ危機、トルコ・シリア地震など、世界各地で自然災害や紛争地域への対応を実施してきた。また2020年1月からは、新型コロナウイルス感染症に対する緊急支援を開始。クラスターが発生した医療機関や福祉施設への医師、看護師、調整員の派遣、高齢者施設への支援物資の提供なども行った。

短期間にとどまらない腰を据えた支援も常勤医師だからこそ可能なことの一つ。一例を挙げると、2018年の西日本豪雨では、時間と戦いながら、地域の中核病院であるまび記念病院に取り残された患者をボートとヘリコプターで救助した。さらに、避難所となった小学校での段ボールを使ったプライベート空間の設営、健康状態を考慮した場所割りのアドバイス、引っ越し作業の全体コーディネートまで、より深く踏み込んで支援活動に関わった。

「被災地の校長先生の補佐役として、息の長い支援を実施できました。必要に応じた支援が柔軟にできるのは、行政ではなく民間でもない、ソーシャルセクターだからこそ可能だと強く感じます」

災害が発生した直後だけでなく、その後の復興支援にも長期にわたって関わっている。東日本大震災では10年、西日本豪雨では5年が経過してもなお、その支援は続いている。また、国外でもウクライナやトルコでの支援を継続中である。ウクライナ危機では避難民へのモルドバでの診療所を半年間続け、トルコ・シリア地震では発災翌日から緊急支援を開始し、山間部の村での支援を1カ月間続けた。直近の2023年5月の能登半島地震では、直接的な医療行為が必要な患者は少なかったが、避難所の支援や、独居の方への訪問など、緊急状況に限らない形の支援を提供している。

「やらなければ0点」 ミャンマーで医療の原点を確認

国際協力や災害支援の分野には学生時代から興味があり、長崎大学に在学中、国際的なNPO団体である核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の活動で、他の広島・長崎の学生たちと共に渡航したこともある。

医師免許を取得し、岡山済生会総合病院に入職。ここで外科医としての基盤を固めたと稲葉氏は語る。

「働き方改革という概念もまだない時代、非常にハードな勤務をこなす中、特に外科のメンターたちからは技術的にも精神的にも鍛えられ、育ててもらいました。そのときの経験があったからこそ、災害医療の現場でも“緊急時にパニックにならず自分を客観視する力”を養えたと思っています」

入職して2年ほど経った初めての夏休み。何をしようか、随分悩んだという。そこで思い出したのが「海外で医療を行いたい」という以前からの願いだった。短期でも受け入れ可能なところを調べた結果、見つかったのが国際医療NGOであるジャパンハートの短期集中型ミッションだ。

早速申し込んで、派遣されたのはミャンマーの山奥。そこで1日10件前後、朝から晩までヘルニアの手術を繰り返し、最後の手術が終わるとシャワー代わりに頭から水をかぶってそのまま寝るという暮らしを経験した。医療資源が極めて乏しい環境において、馬車で3日3晩揺られながら、医療を求めてやってくる患者たちに接する経験は、20代だった稲葉氏の心に強烈な印象を残した。

「当時、自分のやっている医療が本当に患者さんのためになっているのか、自信が持てないでいました。外科医としてもまだ下の立場で、患者さんのことよりも上司や他科の医師、看護師の顔色をうかがいながら仕事をしている自分がいたからです。しかしミャンマーでは、医療設備も整っていない中、100点満点の治療でなくても患者さんを幸せにすることができると知りました。100点にならないからといってやらなければ、0点で終わってしまうのです」

この経験で医療の原点を再確認したという稲葉氏は、改めて医師として患者のために心を砕くことを自身に誓い、帰国の途についた。

被災地を目前に引き返した東日本大震災のトラウマ

災害派遣医療チーム(DMAT)にも、組織創設から間もない時期に参加しているが、活動の中で大きなトラウマとなる出来事に遭遇した。それは、東日本大震災だ。ある日、いつも通り手術を行って控え室に戻ってきた稲葉氏の目に、巨大津波に飲み込まれる東北の映像が飛び込んできた。

現実味を欠いたその映像が、実際に起きていることだと知ったその瞬間、DMATとしての使命を思い出した。すぐに手術のスケジュールなどを調整し、出発の許可を待って、自衛隊機に乗り込んで岩手県花巻市へ向かった。

いわて花巻空港に着くと広域搬送拠点臨時医療施設(SCU)が設置されたが、患者は一向に運ばれてこない。東日本大震災では津波による被害が大きかったため、内陸部の被害は少なかったからだ。気付けば周囲には、各地から集まったDMAT隊員の姿ばかり。自衛隊機で来たため移動するための足もなく、患者用に持ってきた毛布にくるまって、現地の婦人会が握ってくれたおにぎりを頬張ることしかできなかった。

そんな中、原子力発電所の爆発のニュースを知った。ちょうど妻が第二子を妊娠中だったこともありいても立ってもいられずに、気付けば同行した上司に今すぐ帰ろうと説得していたという。

「行けば何とかなると考えていた自分の浅はかさを思い知らされました。このことがトラウマになり、これ以降、災害支援のあり方について考え続けるようになりました」

父の死をきっかけに救急の専門医も取得

もともと外科医だった稲葉氏が救急の専門医を取得するきっかけとなったのは、父親の死だ。外科の専攻医であったころ、病院事務員だった父が急性の心臓疾患で亡くなったのだ。父の勤務先の医師と連絡している最中、相手の後ろで看護師が「先生、心臓が止まっています」と叫ぶ声が聞こえ、そのまま父は帰らぬ人となった。

この経験から「人はこれほど簡単に、心筋梗塞で死んでしまうのか」とショックを受け、救急医療に強く興味を持つように。外科専門医を取得後は、救急を学ぶために大阪府済生会千里病院へと移った。

千里病院は災害援助などで活躍する国際NGOのメッカでもあった。当時、千里病院で救命救急センター長を務めていた甲斐 達朗氏はHuMAの創設者の一人であり、甲斐氏の下には災害医療などの分野で活躍する多くの医師が集まってきていた。ここで稲葉氏は、フィリピンの台風被害やバヌアツ共和国での台風被害などに際して海外派遣を経験し、その後、岡山済生会総合病院が救急を強化するため、2013年に救急科医長として同院へ戻った。

「千里病院に在籍したのは2年間だけでしたが、ここでの経験や出会い、つながりは今でも大切な財産になっています」

さらなる可能性の追求NGO 医師の役割と決意

今後はDMATをはじめとするさまざまな組織で活動してきた経験を生かし、行政や民間、NGO組織などがコラボレーションする際の橋渡し役を担いたいと展望する。

「民間と公的な組織が協働することで、災害医療、地域医療、国際医療の分野でできることはさらに広がるはずです。多くの組織・団体を経験し、今はソーシャルセクターのNGOに所属する医師として、これらの組織の架け橋となれたらと願っています」

稲葉氏は、日本の国力の変化に伴い、公的支援だけでは対処できない災害や過疎地域の問題が増えてきたと指摘する。公益を民間が担う時代において、真に必要な支援を提供するための手法としてファンドレイジング(資金調達)を重視し、医師では日本人初の認定ファンドレイザーという資格を取得した。

「“国が悪い、政治が悪い”といって簡単に諦めるのではなく、問題解決に向けた取り組みを続けることが、NGOで働く医師の役割だと思っています」

P R O F I L E
プロフィール写真

特定非営利活動法人 ピースウィンズ・ジャパン/「空飛ぶ捜索医療団ARROWS」プロジェクトリーダー/岡山済生会総合病院 救急科(非常勤)
稲葉 基高/いなば・もとたか

2004 長崎大学 医学部 卒業
2006 岡山済生会総合病院 外科 勤務
2011 大阪府済生会千里病院 千里救命救急センター 勤務
2013 岡山済生会総合病院 救急科 医長
2017 岡山大学大学院医歯薬学総合研究科 救命救急・災害医学講座
2018 特定非営利活動法人ピースウィンズ・ジャパン 入職
「空飛ぶ捜索医療団ARROWS」 プロジェクトリーダー
2023 広島大学Splendid Professor (兼任)

資格

日本救急医学会救急科専門医
日本外科学会外科専門医・指導医
日本消化器外科学会消化器外科専門医・指導医
日本集中治療医学会集中治療専門医
日本腹部救急医学会腹部救急教育医・認定医
社会医学系専門医協会社会医学系指導医
Acute Care Surgery 認定外科医

座右の銘: 明日死ぬと思って生きよ、 永遠に生きると思って学べ(ガンジー)
愛読書: サピエンス全史、ブラック・ジャック
影響を受けた人: 外科研修時代のオーベン、柔道部の先輩
マイブーム: スラムダンク
マイルール: 「困っている人を助ける」ことを仕事にする
宝物: 家族。医師になってから書き溜めている手技ノート

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2023年8号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。