最先端治療で患者を救う 夢のような血液内科を専門に
血液内科疾患について地域で気軽に相談できる場所をつくりたい――。
2019年、渡邉健氏は埼玉県さいたま市に血液内科クリニックを開業した。血液内科は内科の中でも専門性が高く、総合病院であっても科を標榜している数は少ない。全国的な血液内科医不足も課題であり、この科に通院する患者は遠方の病院や、混んでいる大学病院まで行かなくてはならず、負担が大きい。
「医療は社会インフラです。患者さんの負担をできるだけ減らし、最適な医療を安く提供する。それが僕のモットーです」
そう語る、渡邉氏の真っすぐな視線に迷いはない。その瞳の先に、血液内科の未来はどのように映っているのだろうか。
渡邉氏が医師になった2003年、血液内科は急速な発展の只中にあった。2000年に慢性骨髄性白血病の分子標的治療薬イマチニブが登場し、2001年には悪性リンパ腫の分子標的治療薬リツキサンが承認された。不治の病であった血液がんに光が差し込み、亡くなる患者は劇的に減った。東京医科歯科大学の内科で研修をしていた渡邉氏は、慢性骨髄性白血病が内服薬で寛解するのを目の当たりにして、大きな衝撃を受ける。
「最先端の治療によって、治せなかった患者さんをどんどん治せるようになる。そんな夢のような科に魅力を感じました」
血液内科の進歩は現在も著しく、最近ではCARーT細胞療法が登場するなど常に医療の最先端を走っている。
当時、研修医は雑用も全てこなし、連日病院で寝泊まりするようなこともよくあった。そんななか、40代前半の急性骨髄性白血病の男性患者を担当した。この患者から渡邉氏は医の原点を教えられる。患者は抗がん剤による骨髄抑制が続き、真菌感染症を発症したことで状態が悪化。輸血のオーダーを出していたが、忙しさに追われてそのことを本人に伝えていなかった。患者は悲しい目でこう言った。
渡邉先生のことはもう信用できない――。
「ハッとしましたね。患者さんとの間に信頼関係がなければ治療を進めることはできない。どんな状況にあっても患者さんと真摯に向き合い、誠実な医療を提供する。その大切さに気付かせてもらいました」
患者の妻のお腹には新たな命が宿っていた。白血病の化学療法は妊孕性を失うため、わずかな希望にかけて行った人工授精による妊娠だった。だが、患者は生まれてくる子どもの顔を見ることができなかった。患者の妻は渡邉氏に声をかけた。
「夫は、『この数カ月で渡邉先生はすごく成長した。研修医のなかで一番お医者さんっぽくなったよね』って言っていました。そして、『最期を渡邉先生に診てもらえて良かった』と」
そう言って頭を下げた。渡邉氏の頬を涙が伝った。
血液内科では劇的に良くなり完治する人もいれば、若くして亡くなる人もいる。医師は神ではない。闘いを挑んでも負け戦になるときがある。だからこそ「どう救うか」だけではなく、「どう最期を迎えるか」つまり、患者と家族にとって良い別れの時間をつくることも医師の重要な使命だということを知った。
渡邉氏はもう一つ、研修医時代に徹底して実践していたことがある。呼吸器内科の指導医であった倉持仁氏(現・インターパーク倉持呼吸器内科クリニック院長)からの教えだ。
「『奪い合うように多くの患者さんを診なさい』と言われました。診た数に比例して実力が伸びるのだと」
その後も、渡邉氏は立て続けに血液疾患の患者を担当することになり、その偶然に導かれるように血液内科へ進んだ。
研修後、東京医科歯科大学の血液内科に入局。外来では患者が途切れることなく、一日60人と、科の中でも最も多くの人数を診た。そんな日々のなかで、渡邉氏はふと疑問を感じた。本来、大学病院は教育や研究、高度な医療を提供する場所。しかし、医師たちは治療後のフォローなど、一般病院でも治療可能な患者対応に忙殺され、研究や論文執筆の時間もままならない。患者も丸一日休みを取って受診し、待合室で長時間待ち続けている。医師にも患者にも疲弊と憔悴があった。
「軽い症状の患者を逆紹介できる病院があれば解決できるのではないか」。その思いで、外勤先や関連病院の外来に患者を集めるように動いてみたがなかなかうまくいかず、渡邉氏の胸の奥には何とかせねばという想いが渦巻いていた。その想いが後の開業に踏み出す動機となる。