臨床と研究で命を守り、教育で医局再建に挑む救急医 篠崎 広一郎

医師のキャリアコラム[Challenger]

近畿大学病院 救命救急センター 主任教授/センター長

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/佐藤恵 撮影/太田未来子

卒後10年で渡米。アイビーリーグの一つである名門ペンシルベニア大学で救急医学を学び、スピード重視でシステム化された米国の医療に10年携わる。その間、ニューヨークのファインスタイン医学研究所の基礎・臨床研究でも成果を上げた。帰国後は、運営困難となっていた近畿大学病院救命救急センターの主任教授を引き受け、立て直しに取り組む。救命後の患者の生活の質を高めるため、死のしくみ、生のしくみを解明する蘇生研究も続けている。2025年11月、近大・救命救急センターは新築移転を完了させる予定であり、人材育成にも拍車がかかる。1分1秒を争う救急医療の現場で20年以上命と向き合ってきた篠崎 広一郎氏の歩みと、臨床・研究・教育への思いを伺った。

巨塔なき時代の働き方は“やらされ感”をなくすこと

物心ついた頃から篠崎氏の父は仕事ばかりの厳しい人で、家で会話できる機会は多くなかった。そんな父の仕事を具体的に知ったのは、中学生の頃。当時、厚生省健康政策局の課長で、1991年施行の救命救急士法策定に携わっていた。

「父方の祖父は戦時中からの開業医。知らず知らずのうちに、私の中で救急と臨床の芽が育っていたのかもしれません」

その後父は医政局長になり、医局制度による囲い込みを解消すべくマッチング制度にも取り組んだ。父とは対照的な性格である篠崎氏は、金髪で毎週ヨットに乗っている医学生だったが、唯一形として残った親孝行がある。

「医師免許の右に私の名前、左には医政局長だった父の名前があるんです。母を通じて、父が喜んでいたことを聞きました」

母校である千葉大学の医局に所属し、研修医生活がスタート。大学医局はどこも「白い巨塔」の構造が残っている時代だったが、それも医師としての成長には必要なことだったと振り返る。

「人事も勤務時間も思い通りにはならない。でも、基礎を築くためには一定期間、集中して学ぶ時間が必要です。当時の恩師である平澤 博之先生は、父に似て厳しい先生でした。平澤先生の指導がなければ、今の自分はなかったと思います。家に帰れない日もザラでしたが、好きなこと、やりたいことをやっているという思いに支えられていました」

指導する立場となった今、後進には仕事で自分が夢中になれるものを見つけること、プライベートも大事にすることを徹底して伝えている。17時までに仕事を終わらせて、時間が来たら帰る。それが、働き方改革が開始された現在の働き方だ。日本の医師の過重労働は米国でも知られている。米国のレジデントも労働条件の過酷さに変わりはないが、大きな違いは“やらされ感”があるかないかだと篠崎氏は考える。職場で自分が興味のある分野をしっかりと学べること、憧れの先輩医師の存在があることも大事だ。若手のうちに、守備範囲の広い救急科で医師としての土台を築き、目の前で倒れた人を救えるという自信を付けてほしい、そして、医師としての使命感を抱いてほしいーー。

「そういった若手医師を増やす教育をするために米国から帰ってきました。それが今、診療科偏在が深刻な日本にとって必要なことだと思っています」

時速200キロのERを経て日本の医療の強みに気付く

篠崎氏の医師人生は、ほぼ10年単位で変革期を迎えている。米国に留学したのは、卒業から10年後の2013年。大学院で、蘇生分野の論文を書いていたことから研究留学の道が開けた。ペンシルべニア大学、ファインスタイン医学研究所、ホフストラ大学ザッカー医学部で心肺停止後の蘇生法研究に取り組みながら、ERで研鑽を積んだ。

米国で研究と臨床に携わった篠崎氏によると、米国のERは日本の総合診療科に近い位置付けだという。予約をしていない初診の全ての患者はERを経由し、必要があれば各診療科を受診する。もちろんERには重傷患者も運ばれてくるが、初療を終えたら専門科につなぐため、イメージとしては振り分け専門部隊だ。

米国では「断らない救急」が徹底されているが、内情は日本と少し異なる。日本の「断らない救急」は正義と倫理とガバナンスで成り立っているが、米国のそれは資本主義原理にのっとる医療経済システムの一部として、非常に効率よく機能しているという。

「米国の医師は日本の医師の2倍の給料で、労働時間は半分。それを達成するためにERの現場は時速200キロで走り続けています。患者が絶え間なく来院し、判断量も圧倒的に多い。しかし、それを実現するためのシステムがあり、医師はそれを使いこなすトレーニングを積んでいます」

米国でも日本でも医療の基本原則や哲学は同じだが、実践の方法と手段が異なるのだ。日米両方の医療を知る篠崎氏は、効率的でしっかりと利益を生むシステムが機能しているという点では米国は進歩的だが、日本の医療の質が劣っているとは思っていない。

「効率の追求は必要ですが、日本の真心から来る医療も大切にしたい。米国では車いすを押すのにも診療報酬がかかりますから。両国のいいとこ取りの組織を近大でつくりたいですね」

米国に渡った当初は、言語の壁で診療に苦労した。唯一の武器は、研修医時代に培った丁寧な身体所見。一問一答のクローズドクエスチョンで患者の状態を素早く把握しながら、丁寧に治療方針を説明した。コツコツと着実に努力する姿勢は万国共通で評価された。篠崎氏はホフストラ大学ザッカー医学部の数多くの救急医の中から患者満足度アンケートでNo.2になったこともある。実直に患者の要望を叶え続けた結果であった。

言語化の必要性を丁寧に説き 進むべき道を照らしてくれた

米国留学では、もう1人の恩師との出会いがあった。蘇生科学研究の第一人者である、ペンシルベニア大学のランス・ベッカー教授だ。ER業務と研究を両立し、後進の指導にも熱心なベッカー教授の姿は目指すべき米国での医師像に重なったという。

篠崎氏がプレゼンテーション資料の準備をしていると、ベッカー教授がスライドを一枚一枚チェックしてくれた。「このスライドで言いたいことは?」と質問され、篠崎氏が答えると「では、この接続詞が適切だね」と言い、一言一句にこだわる理由をこう説明してくれた。

「大事なのは、聞き手がすんなりと理解できること。聞き手が気持ちよくなるプレゼンをすることが大事だ」

そう教えてくれたベッカー教授のプレゼンテーションには大衆を引き付ける魅力があった。「見て学べ」が良き教えとされていた時代があり、篠崎氏はその最後の世代だったろう。しかし今は違う。指導においては、何をやるか、なぜやるかを言語化し、理解できる言葉で伝えることが必要だ。それは、若手医師が感じる“やらされ感”を払拭することにもつながる。ベッカー教授は篠崎氏に言語化の力を授けた。その効果は後に行う近大でのチームづくりで体感することになった。

「教授は、実験データがうまく取れない時も私を励ましてくれて、人をその気にさせたり、チームの士気を上げたりすることもうまい方だった。一流のチームメイキングを学びました」

死とは何かを考え続け 生きる可能性を高める研究を

救急医であり蘇生分野の研究者でもある篠崎氏にとっては、心拍と血流の再開がゴールではない。認知機能障害を起こすことなく回復し、無事に帰る患者を見送って初めて「蘇生」なのだ。その考えの下、篠崎氏が研究テーマとするのは、「虚血再灌流障害が引き起こす細胞死におけるミトコンドリアの機能解析と機能回復」である。

日本では、心肺停止に陥り救急搬送される患者は年間約10万人にのぼる。救命率は10%未満であり、幸いにして心拍が再開しても、虚血再灌流障害によって心停止後症候群(PCAS)が起こることが多い。そのPCASの病態生理の一因が、ミトコンドリアの機能障害だ。ミトコンドリアは細胞内で酸素を消費しエネルギーであるATPを生成するが、そのATPが細胞外に漏れ出ると、漏れ出たATPと細胞表面のP2X7レセプターが結合し、細胞内でミトコンドリア異常を起こすことが分かった。いわば、自分自身の生成物がブーメランとなって返ってくるのだという。今後の課題は臨床応用である。

「今は、健康なミトコンドリアを投与する動物実験が始まったところです。ミトコンドリアDNAは母親由来で全ての人間に共通なので、免疫反応を起こさないはず。自家移植が必要ないので、製剤への応用が期待できます」

米国留学時、ベッカー教授とは「人間はいつ死んだと言えるのか」について熱く語り合った。患者がどのような危機的な状態でも、「まだできることがある」と徹底的に考え尽くす姿勢とそれを実行する技術を学んだ。

「臨床と研究の両面からのアプローチで蘇生に取り組むのが、私の仕事です」

医局再建の一筋の光「目の前の命を助けていた」

渡米して10年後の2023年、近畿大学病院から、人手不足で運営が難しくなっていた救命救急センターの立て直しを依頼された。執行部メンバーと面接した時に、「火中の栗を拾ってもらうみたいで申し訳ない」と言われ、「火中の栗は好物です」と即答した。

「私は自身のキャリアを選択する際、『居心地が良くなったら、もうそこでやることはない』と考えています。ちょうど米国生活も10年経ち、新たなチャレンジをする時だと思いました」

篠崎氏が着任する直前、救命救急センターの専門医はたった3人のみ。3人で搬送の受け入れから治療、当直までをこなす、ギリギリの状況だった。しかし、篠崎氏はこの組織は立て直せると確信した。理由はただ一つ。

「先生たちは、目の前の命をちゃんと助けていた。熱傷面積が40%を超える患者さんや交通事故で意識不明の重症頭部外傷を負った患者さんが、元気になって帰って行く姿を見て、このスタッフとならできると思いました」

医師が集まる医局にするには、教育環境の整備が急務であった。若手医師が自分の理想とする医師像を思い描くことができる、そしてそれを実現できる環境をつくることが改革の第一歩であると考え、研修医教育に力を入れた。言語化した教育体制、学んだことを実践する場の整備……。課題は山積みであったが、赴任して1年半も経つと成果が出始めた。数年間ゼロだった専攻医が、今年の春には4人増員することになったのである。医局を長く見てきた職員は、篠崎氏の赴任後から救急科で学ぶ研修医の目の輝きが明らかに違う、と言う。1年目の必修で救急科を回った研修医が2年目の選択期間にも学びに来るようになり、医局に若い勢いが加わった。

今年11月には現在の狭山市から堺市に病院が新築移転し、三次救命センターが設置される。

「新病院は空港に近く、インバウンド需要も取り込めて、患者さんの多様化につながる。都市部から人材も集まりやすく、人材育成の追い風になるでしょう」

日本と米国、それぞれ約10年ずつ、全く異なる救急の現場で「命を守ること」を追求してきた。だからこそできる指導があると気付いた。

「私は各専門科のように洗練された外科手技を教えることはできない。ですが、ここに来れば今消えそうな命を救うことのできる医師になれる。どんなに素晴らしい手技でも、患者さんが亡くなって手術台に乗れなかったら生かされない。命をつなぐことが救急医の仕事であり、医療のベースでもあります」

かつて命をつないだ患者からもらった言葉に生かされる

現在の最大のミッションは、堺市に構える新たな拠点を、「どんな患者が来ても受け入れられる盤石な救命救急センター」として立ち上げること。また、「教育」「研究」のさらなる充実により医局の再建も加速させなければならない。本来、こうしたミッションを同時並行で進めるだけでも手一杯のはずである。しかし、篠崎氏は、手技のトレーニングも欠かさない。

「救命救急では、手術できる医師が自分しかいない夜が必ずある。その時のために、今も初心を忘れず研鑽を積んでいます」

こうした強い思いを持つ理由には、さまざまな患者との出会いがある。篠崎氏は忘れられない患者として1人の女性を挙げた。日本でのシニアレジデント時代、交通事故による腹腔内出血でショック状態の患者が運ばれてきた。篠崎氏が緊急手術を担当したが、術後に腸管の縫合不全で腹腔内膿瘍を併発。度重なるドレナージと人工肛門造設で、退院までに3、4カ月を要した。その後の再手術、外来での定期フォローを含めると長い付き合いとなった。2023年、米国からの帰国時に、縁あってその患者と会うことができた。救命救急センターの立て直しで疲弊していた篠崎氏に、彼女が言った。

「大変なところに来るって、先生らしいじゃない。私は、先生に助けてもらった命に毎日感謝して生きているのよ」

かつて命をつないだ患者から励まされ、今度は自分が命を吹き込まれた。救急医として、技術や知識を向上させ続けることがプロフェッショナルであるということを再確認した言葉だった。

「助けた命に助けられ、また次の命を助けていく。その循環を止めないことが、救急医のあるべき姿なのかもしれません。私が20年かけて見つけた答えを、若い医師たちに伝えていきたい」

P R O F I L E
プロフィール写真

近畿大学病院 救命救急センター 主任教授/センター長
篠崎 広一郎/しのざき・こういちろう

2002 千葉大学 医学部 卒業、千葉大学医学部附属病院 救急部・集中治療部 所属
2009 千葉大学大学院医学研究院 博士課程修了
2011 千葉市立青葉病院 救急集中治療科 部長
2013 ペンシルべニア大学 リサーチ・フェロー
2015 ファインスタイン医学研究所 研究員
2018 ホフストラ大学 ザッカー医学部 救急レジデント
2021 ホフストラ大学 ザッカー医学部 アシスタント・プロフェッサー、ファインスタイン医学研究所 アシスタント・プロフェッサー
2023 近畿大学病院 救命救急センター 主任教授/センター長、ファインスタイン医学研究所 分子病態学 客員講師

所属

日本救急医学会救急科専門医
日本集中治療医学会専門医
日本外科学会外科専門医
米国救急専門医

専門

救急科、蘇生治療、ショックと酸素代謝異常の病態解明と治療に直結した蘇生分野の研究

座右の銘: おれはもっと強くならなくちゃ仲間を守れねェ(ONE PIECEのルフィより。今でもChallenge を続ける理由です。)
宝物: 妻、3人の娘と、1匹の愛犬

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2025年2月号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。

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