医局再建の一筋の光「目の前の命を助けていた」
渡米して10年後の2023年、近畿大学病院から、人手不足で運営が難しくなっていた救命救急センターの立て直しを依頼された。執行部メンバーと面接した時に、「火中の栗を拾ってもらうみたいで申し訳ない」と言われ、「火中の栗は好物です」と即答した。
「私は自身のキャリアを選択する際、『居心地が良くなったら、もうそこでやることはない』と考えています。ちょうど米国生活も10年経ち、新たなチャレンジをする時だと思いました」
篠崎氏が着任する直前、救命救急センターの専門医はたった3人のみ。3人で搬送の受け入れから治療、当直までをこなす、ギリギリの状況だった。しかし、篠崎氏はこの組織は立て直せると確信した。理由はただ一つ。
「先生たちは、目の前の命をちゃんと助けていた。熱傷面積が40%を超える患者さんや交通事故で意識不明の重症頭部外傷を負った患者さんが、元気になって帰って行く姿を見て、このスタッフとならできると思いました」
医師が集まる医局にするには、教育環境の整備が急務であった。若手医師が自分の理想とする医師像を思い描くことができる、そしてそれを実現できる環境をつくることが改革の第一歩であると考え、研修医教育に力を入れた。言語化した教育体制、学んだことを実践する場の整備……。課題は山積みであったが、赴任して1年半も経つと成果が出始めた。数年間ゼロだった専攻医が、今年の春には4人増員することになったのである。医局を長く見てきた職員は、篠崎氏の赴任後から救急科で学ぶ研修医の目の輝きが明らかに違う、と言う。1年目の必修で救急科を回った研修医が2年目の選択期間にも学びに来るようになり、医局に若い勢いが加わった。
今年11月には現在の狭山市から堺市に病院が新築移転し、三次救命センターが設置される。
「新病院は空港に近く、インバウンド需要も取り込めて、患者さんの多様化につながる。都市部から人材も集まりやすく、人材育成の追い風になるでしょう」
日本と米国、それぞれ約10年ずつ、全く異なる救急の現場で「命を守ること」を追求してきた。だからこそできる指導があると気付いた。
「私は各専門科のように洗練された外科手技を教えることはできない。ですが、ここに来れば今消えそうな命を救うことのできる医師になれる。どんなに素晴らしい手技でも、患者さんが亡くなって手術台に乗れなかったら生かされない。命をつなぐことが救急医の仕事であり、医療のベースでもあります」