救急搬送数日本一のERで精進 キャリアが描けない不安も
和足氏がGeneralistとしての臨床力を磨いたのは、湘南鎌倉総合病院での初期研修時代だ。当時、年間の救急搬送数は1万2,000台以上。「日本で一番忙しい救急現場で、何でも診られる医師になりたいと思った」と振り返る。
朝5時半の病棟患者の採血から始まり、外来やERでの初期対応、急性期病棟での管理業務と、夜遅くまで病院にいるのが当たり前。土日も救急当番に入り、自宅に帰れるのが1カ月のうち数日というハードな日々を送っていた。ここで徹底的に叩き込まれたのは身体診察だ。爪から患者の状態を診る、多様な診断を絞り込むための特殊な診察技法も学んだ。
「若いので体力的には何とかなっても、精神的につらいことはありました。一緒に頑張る同期の存在は大きかったです。今思い返すとあのときの経験があったからこそ、どんな患者さんでも絶対に診るというマインドセットが身に付いたと思います」
医師5年目で総合内科のチーフレジデントになると、院内全部門からの内科系コンサルテーションと教育を一手に引き受けた。後に和足氏が、ネットワークづくりのために全国100以上の病院を回り、どんな環境でも勤務できたのは、ここで磨き上げられた臨床力があったからだ。過酷な研修によって、身体的にも精神的にもタフに成長した。
臨床に邁進する一方で、将来への不安もあった。診療に忙殺される毎日で将来の展望が描けなくなっていたのだ。総合診療医としてのキャリアプランが見えず、専門科に進んだほうがよいのではという考えもよぎった。そのとき相談に乗ってくれたのが、徳田 安春氏(現・群星沖縄臨床研修センター センター長)である。徳田氏は総合診療のパイオニアとして、すでにその名が知れ渡っていた。
「カチコチに緊張しながら会いに行き『臨床をしながら教育も研究もしたい』という自分の目標を語りました」
それを聞いた徳田氏からは、「私のメンティーとして、必ず臨床・教育・研究で活躍できるようになりなさい」と背中を押された。当時、その3つ全てを高いレベルで実践できている医師は少なかった。研修を終えた和足氏は、徳田氏からの呼びかけに応じ、東京城東病院の総合診療科の立ち上げに奮闘した。
その後、徳田氏から大学で教育改革に取り組む道を勧められた和足氏は、2016年に島根大学の卒後臨床研修センターに赴任。徳田氏は、和足氏が「島根から全国にGeneral旋風を起こす役割」を果たせる人物だと見抜いていた。和足氏は不安を抱きつつも、憧れていた大学教員になれることに心は湧き立っていた。その根本には「日本の医学教育を変えたい」という強い思いがあった。