全身管理を極め患者の命を預かる手術の水先案内人 長坂 安子

医師のキャリアコラム[Challenger]

東京女子医科大学 医学部 麻酔科学分野 教授・基幹分野長

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/横井かずえ 撮影/緒方一貴

「麻酔科医の仕事は、麻酔で患者を眠らせるだけではありません。私たちは全身管理のプロであり、患者の命を預かる手術の水先案内人なのです」
――こう語るのは、東京女子医科大学麻酔科学分野教授・麻酔科診療部長の長坂安子氏である。長坂氏は麻酔の殿堂であるハーバード大学マサチューセッツジェネラルホスピタル(MGH)の麻酔科レジデンシーを経て、最も狭き門の一つである心臓胸部麻酔フェローを修了した、心臓麻酔のスペシャリストだ。シングルマザーとしての子連れ留学など数々の挑戦と困難を乗り越え、そのキャリアを築いてきた。
「ピンチに陥ると、必ず誰かが手を差し伸べてくれた」と周囲への感謝を忘れない長坂氏に、波乱に満ちた半生と麻酔科医としての揺るぎない信念を聞いた。

全身管理と超急性期管理を担う命の守り人

長坂氏の部屋の一角にあるロッカーには、子ども向けの絵本が数冊収まっている。なぜ、教授室に絵本があるのだろうか?

「これは、病棟に持って行く絵本です。手術で麻酔をかけた患者さんや、病状によって手術ができなかった患者さんの下へ伺うときに持って行きます。がんの末期になると、もう字を読むことはできませんが、絵なら見ることができる。過去に何らかのつながりがあった患者さんたちが最期に近づいたときに、その時間が少しでも穏やかになればと、絵本を読みに病棟を訪れているのです」

麻酔科医といえば患者との関わりは手術の前後が中心で、病棟の患者を診るイメージはなかなかない。しかし、長坂氏は必ず患者に会いに行くと決めている。なぜなら“麻酔屋になってはいけない”と固く心に決めているからだ。

「麻酔科医である前に、患者さんを大切に思う一人の人でありたいと思っています。すると術前・術後の体調や気分がどうかも気になりますし、少しでも体や心が楽になる方法を提供したいと思うのです」

麻酔科医が行うのは、患者の入院から手術前の準備、麻酔、手術、回復という一連の流れにおける周術期管理。いうなれば、患者が無事に手術を終え順調に回復していく過程を総合プロデュースする存在だ。

対象患者は新生児から高齢者まで。全診療科の手術内容と、術者の力量まで深く理解しておく必要がある。

「手術のどの段階が最も危険かを想定する。同じ術式でも、術者による段取りや、やり方があるので、そこまで把握しておきます。大事なのは、何が起きても冷静に対処すること。麻酔科医は影の命の守り人なので」

麻酔科医の仕事として緊急時の救命処置は誰の目にも明らかだが、臨機応変な対応が際立つ、匠の技を端的に示すエピソードがある。手術の終盤、外科医が腹を閉じているときに筋弛緩薬が切れかけて、縫合しにくそうな手元に気が付いた。しかし抜管後の安全を考えればここで筋弛緩薬を多く使うことは望ましくない。そこで、本来ならば1mlずつ投与する薬を0.5mlほど点滴に混ぜた。少しの間があってから、縫合中の外科医が振り返り、ひと言、「ありがとう」と言った。長坂氏の細やかな計らいに、術者はしっかり気付いていた。プロ同士の粋なやり取りが感じられるエピソードである。

母譲りの研究好きで医師に 麻酔科医という天職に出合う

銀行員の父と薬剤師の母の下に生まれた。母はシカゴ大学のファカルティーの職位にあり、将来を嘱望された研究者だった。家庭に入り研究の道を一度は断念したが、長坂氏の高校入学後に再び研究に従事し、72歳で医学博士を取得した。そんな母から研究の面白さを学び、自然に医師を目指した。

大学時代、長坂氏はウィリアム・オスラーの『平静の心』に感銘を受け、本書を翻訳して日本に広めた日野原重明氏が病院長を務めていた聖路加国際病院で初期研修を開始する。そこで働く医師の姿を見て、いい意味で衝撃を受けた。

「女性医師たちは化粧する間も惜しみ、とにかく患者のために忙しく走り回っていました。“スッピンの女性医師たち”が、とても格好良く見えたのです」

聖路加国際病院で内科系研修を受けた3年は、自ら夜間救急の“戦場”へ飛び込み、多くの症例を学んだ。「ベッドサイドに行き、自分の目で診る」習慣は、この時代に染みついた。

麻酔科のローテーションでは、「進むべき道はここだ」と決定付ける感動をいくつも覚えた。心臓手術で見たのは、麻酔薬、循環作動薬、ペースメーカー、人工心肺、心臓超音波を深く理解し、周辺機器を自在に操る麻酔科医の姿。外科医や看護師らと共にチームワークで行う手術において、1歩先の状況を読みながら先導する姿は長坂氏の目に輝いて映った。自称“ライン(点滴)オタク”と言うほど手技が好きで、硬膜外・CVラインや気管挿管などの生命に直結する手技ができることも魅力に感じた。また何といっても、薬理学や生理学の基礎医学が臨床と融和している麻酔科学に対する知的好奇心が長坂氏の興味を引きつけた。そうした魅力に加え、恩師である瀧野恵介氏の「患者さんを自分のおっかさんと思って麻酔をしなさい」という言葉に医師としての原点を見いだしたため、麻酔科に進むことを決めた。

6歳と2歳の子どもを連れシングルマザーとして渡米

挑戦続きの長坂氏の半生は、支えてくれた人たちの存在なくしては語れない。プライベートでは2人の子を持つ母でもある。研修医2年目に第1子を出産し、産後も仕事にまい進した。第2子の産後6日目には新幹線に乗って専門医の口頭試問を受け、入院中の病院へとんぼ返りした。しかしその後、当時の常勤枠の関係で聖路加国際病院を退職せざるを得なくなった。それを機に「ならば、今までできなかったことをやろう」と、研究に取り組むことを決意。東京女子医科大学麻酔科学講座で臨床医として働く傍ら、研究生として、動物実験に専念した。2年後には米国心臓病学会のオーラル発表に採択される栄誉を手にした。一方で、仕事と家庭との両立の中ですれ違いが生じて離婚。麻酔科医としてもまだ一人前とはいえない中で、乳幼児2人を抱えたシングルマザーとなり、まさに「人生の大ピンチ」であった。しかし、ピンチと同時に大きなチャンスが訪れた。恩師から、麻酔の殿堂であるハーバード大学マサチューセッツジェネラルホスピタル(MGH)への留学を勧められたのだ。

「当時の常識では、小さな子どもが2人もいる女性に留学の推薦をくださるなんてあり得ないことでした。上司の信頼に応えたいが、どうすれば子連れで渡米できるのか、悩みました」

子どもはまだ6歳と2歳。長坂氏の活躍を誰よりも応援していた父は現役で働いており、母は持病があった。他の家族や親戚も頼れない状況――。その時、力になってくれたのが、長年お世話になっていたシッターだった。移住後合計2年間、一緒に滞在し米国生活の基盤作りを支えてくれた。その後10年アメリカ勤務を続けることになるが、大雪で子どもの学校が休校の日には近所の家族が助けてくれて、ヨーロッパでの国際学会発表時には母が飛んできてくれた。長坂氏の奮闘する姿を見れば、誰もが「応援したい」と思うのだ。

MGH心臓麻酔科フェロー経て医師としての第六感を得る

渡米後は、世界的な麻酔・集中治療の重鎮Warren M. Zapolハーバード大学麻酔科学教授らの下で一酸化窒素の研究に励んだ。論文でしか知らなかった偉大な研究者が集まる環境に心が躍り、毎朝仕事に向かう足どりが弾んだ。臨床を離れ、研究一筋でまい進した成果の一つは「マウス心筋虚血再灌流」をテーマにした論文。世界中の麻酔科医が目指す『Anesthesiology』に掲載され、その後のキャリアを築く大きな一歩となった。この研究は虚血再灌流を起こしたマウスに一酸化窒素を投与すると、心筋の障害を軽減できることを明らかにしたものだ。

「治療でどれほど手を尽くしても、亡くなってしまう人がいる。だからこそ、臨床と研究は両輪として、どちらも全力を尽くして取り組まなければと思うのです」

MGHでのリサーチフェローの契約は3年だったが、Zapol氏から臨床と研究を医師として両立できるポストを薦められ、米国に残るよう誘われた。臨床を離れて3年、研究生活は充実していたが、心にぽっかり穴が空いた感覚は、臨床への渇望だと気付いた。同時期、心に刻まれる出来事もあった。敬愛してやまない日野原氏とボストンで会食する機会を得たのだ。日野原氏は「せっかくMGHにいるならば、ハーバード大学のレジデンシープログラムに入りなさい。その後は心臓胸部麻酔のフェローをして、聖路加国際病院へ戻って来ませんか」と長坂氏に提案した。レジデンシープログラムが難関ならば、その後に続く心臓胸部麻酔フェローもさらに狭き門だ。それを、日野原氏は平然と「やりなさい」と言う。

「“日野やん”に言われたならば、やるしかないです(笑)」

長坂氏が、米国での臨床医としての挑戦に腹を決めた瞬間だった。

レジデンシープログラムへの1度目の挑戦では、惜しくも不合格。アメリカでの麻酔科人気は高く、倍率は果てしなく高い。自分自身の弱点を徹底的に見つめ直し、2度目の挑戦に向け、合格する可能性が高まると考えられることは全て行った。

「毎日アメリカ人の同僚をコーヒーブレイクに誘って雑談したり、知り合いの現地医師には全員に面接練習や履歴書の添削をしてもらったりしました」

2009年、ついに合格し、麻酔科・集中治療・ペイン科レジデントのポジションをつかみ取った。さらに、2014年には念願の心臓胸部麻酔フェローになることもかなった。

MGHにはオペ室が100室くらいあり、年間約3万5000件もの手術が行われる。ここでしか治せない患者たちが次々と運ばれてきて息を吹き返す、まさに最後の砦。長坂氏は、1分1秒を争う場で数多くの手術に入り、修羅場を乗り越えてきた。こうして重症患者を多く診た経験から、医師としての“第六感”を得たという。

「銃創が18カ所あり瀕死の状態で運ばれてきた患者さんが回復して帰っていく、それが日常風景でした。そういった患者さんを多く診てきたことで顔色や表情、説明できない勘から本当に危ない人を察知するセンサーが働くようになりました」

聖路加での初期研修に加え、アメリカでのレジデンシー、さらに、フェローとしての経験を積んだ長坂氏は“いかなる状況でも患者の命を守るため冷静にブレない心と対応力”を得た。それは長坂氏が米国を去るときにZapol氏からもらった餞別(せんべつ)の言葉にも表れている。

――あなたは私が知る人の中で、最も優しく賢い学習者であり、教育者であり、研究者です。

母校・女子医大教授に就任 得意を集めてチーム力を高める

こうして臨床、研究、子育てと充実した毎日を過ごしていたある日。痛ましいニュースが飛び込んできた。2014年に起きた、東京女子医大のプロポフォール事件だ。

「2歳の小児にICUでプロポフォールを48時間以上投与という、アメリカでは耳にしないことが実際に起きているのに驚きました。しかも、私の母校です。その瞬間『帰らなければならない』と感じました」

2016年に帰国すると、聖路加国際病院の麻酔科部長に着任した。すぐに母校へ戻らなかったのは、日野原氏との約束があったからだ。4年間、聖路加国際病院で麻酔科を牽引し、スタッフの育成や体制の強化に専念した後、東京女子医科大学麻酔科の主任教授公募に応募し、2020年に主任教授・麻酔科診療部長に就任した。着任後に取り組んだのは、強い組織作りである。

「この人ひとりで成り立っているという組織は脆弱です。むしろ、専門領域を持ち寄ったチーム力の高い組織を作ることが大切。東京女子医大はすでに優れた心臓麻酔チームがありました。さらに、私の専門は心臓で、産科麻酔も多く経験していますが、小児麻酔は、国立成育医療研究センターから来てくださった先生が精通している。他にもブロック麻酔に卓越する医師が加わるなど、さまざまな得意分野を持つ医師たちが集まり、今まさにその次の世代が育ちつつあります」

長坂氏率いる麻酔科チームは、院内で毎週2回行われる全診療科のハイリスク症例検討会に参加する。患者のカルテを細かく読み込み、臓器横断的にリスクを把握し、治療方針の決定に関わる。また、院内急変者への第一対応は麻酔科が担うなど、オペ室以外での活躍も光る。

所属施設での役割を果たすことに加え、全国における麻酔科の発展にも貢献する。現在は、日本麻酔科学会の理事をはじめ、同学会や日本臨床麻酔学会、日本心臓血管麻酔学会の国際交流委員を務めるなど、日本と海外の架け橋としても活躍している。

「ガイドラインに含まれ、海外では一般的に用いられている薬が日本で未承認ということがあります。より良い治療を行うための陳情は学会単位での活動が必要です。帰国した理由でもありますが、日本の医療を良くするために貢献したいと思っています」

麻酔科医という仕事が大好きで、いまだにワクワクするという長坂氏は、研究も教育も、臨床も、やりたいことはまだまだある。人工心肺の前向き研究に取り組む他、無痛分娩と産後うつ軽減との関係性の研究や、術中の低血圧を抑える拮抗薬の開発、小児の覚醒時興奮を防ぐ脳波の研究など、同時進行で多岐にわたるプロジェクトを進行している。「大学に来て幸せなのは、未来の希望である医学生と関われること」と語るほど、人材育成にも情熱を注いでいる。多くのことに全力で取り組んで来た一方で、まだできていないことがある。それは「医師として、死と向き合う」ことだ。

「病院に来れば、いとも簡単に生きるための医療が始まります。しかし、今、医療の終わりを誰も決めることができない。人工呼吸器や人工心臓など、医療の進歩が速い現代だからこそ、より良い最期をサポートしたい」

こう語りながら、未来を見据えるように遠くを見つめ、柔らかなほほ笑みを浮かべた。

P R O F I L E
プロフィール写真

東京女子医科大学 医学部 麻酔科学分野 教授・基幹分野長
長坂 安子/ながさか・やすこ

1994 東京女子医科大学 医学部 卒業、聖路加国際病院 内科レジデント 麻酔科医員
2003 東京女子医科大学 麻酔科 研究生
2005 ハーバード大学Massachusetts General Hospital 麻酔科・集中治療・ペイン科
2010 同科 レジデント
2014 同科 心臓胸部麻酔フェロー
2016 聖路加国際病院 麻酔科部長
2020 東京女子医科大学 麻酔科講座 主任教授・麻酔科診療部長、昭和大学医学部 麻酔科学講座 客員教授
2021 東京女子医科大学 麻酔科学分野 教授・基幹分野長・麻酔科診療部長(名称変更)

所属・資格

日本麻酔科学会 麻酔科専門医・認定医、厚生労働省 麻酔科標榜医、日本内科学会 内科認定医、厚生労働省医政局長 指導医講習会修了、医療安全管理者講習会修了、ECFMG Certificate、米国麻酔科学会 専門医、米国経食道エコー認定NBE-PTE Advanced

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2025年5月号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。

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