日本一の大動脈手術数を手掛け、根治を追求する心臓外科医 大島 晋

医師のキャリアコラム[Challenger]

社会医療法人財団 石心会 川崎幸病院 川崎大動脈センター センター長/大動脈外科 部長

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/佐藤恵 撮影/緒方一貴

年間1000件に迫る勢いの大動脈手術件数は、国内で断トツのトップ。そんな社会医療法人財団石心会川崎幸病院の大動脈センターを率いる大島晋氏は、1日に3件の執刀もまれではないという。予定手術が2カ月先まで埋まる中、国内のみならず海外からも紹介される難症例・重症例の患者の緊急手術にも随時対応し、命の砦を地で行く日々だ。
同センターを立ち上げた山本晋氏(川崎幸病院院長)の「心臓血管外科医に一流あって二流なし」を胸に刻み、その大きな背中を追いかけ走り続けて15年、大動脈手術のスペシャリストとしてこれまでの累計手術数は1800件にものぼる。根治にこだわり、実績のある確実な術式でひたすら腕を磨き続けた、自らをもって「希少種」と任ずる大島氏のハードでタフな道程をたどった。

標準化を極め精度を上げる 日本トップの手術成績誇る

「大動脈瘤・大動脈解離診療ガイドライン」では胸部・腹部大動脈瘤の外科的治療の適応は55mm以上とされている。川崎幸病院の大動脈センターでは、動脈瘤を切除し、人工血管に入れ換える「人工血管置換術」と、ステンレスなどでできた針金のバネが付いた人工血管を大動脈瘤部分に留置する「ステントグラフト内挿術」の両方を行っている。ガイドラインを踏まえ70歳以下の患者には前者を推奨、70歳以上の下行大動脈嚢状瘤、腹部大動脈瘤には後者を検討している。ステントグラフトは低侵襲ではあるが人工血管置換術に比べると歴史が浅く、血管が二車線になる解離性動脈瘤には適さない。同センターでは、長期予後を重視した治療戦略を立てている。

「ステントグラフトを入れるなら、10年後にリカバリーできるようにしておくべき。他院からの患者さんで、バイパスをつなげて元々の血管と形を変えてステントグラフトが入っているケースもあり、再手術時に想定外のことが起こることがあります。一方、当院の手術では解剖学的再建を行い、何かあった時には確立されたリカバリー法があります」

患者と術者双方の負担を軽減する新しいデバイスも開発されているが、安易に手を出さず、基本的には根治を目指す手術を優先して選択すると大島氏は言う。

「『新しいから』『楽になるから』を理由に選ぶことはありません。長期的な保障があれば使いますが、現状ではわれわれの開胸手術の方が成績が良いので、このまま続けて精度をさらに上げていく方針です」

同センターでは、手術の「標準化」を徹底している。大島氏の師匠である山本晋氏(※1)が2003年に川崎幸病院に大動脈センターを立ち上げた際、誰でも同じことができるように手術をシンプルにし、医師、看護師、臨床工学士らと共にプロセスを共有し、同じ手順・方法で手術を行うことを決めた。それを繰り返すことで精度や効率が上がり、同センターの手術成績は全国平均をはるかに上回っている。大島氏が着任した2011年には、標準化はほぼ完成されていたという。

「同じやり方であれば、不測の事態が起きても落ち着いて適切な対処ができますし、後から振り返りができます。組織を剝離する順番、吻合の道具や手順、器械を置く場所も全て決まっています」

弓部大動脈の人工血管置換術であれば、正中切開をして人工心肺を確立する。冷やした血液を流すことで全身を20度まで冷却。上行大動脈を遮断し心筋保護液を注入して心臓を保護する。心停止後に血液循環も停止するため、脳の血管にチューブを挿入して脳灌流を行うことで脳の血流を維持する。動脈瘤を切除し、人工血管を吻合したら人工心肺を再開。心臓が動いていることを確認したら人工心肺から離脱し、閉胸。手術はおよそ4時間で終了する。

「傷のトラブルを考慮するなら、手術は8時間以内で組み立てなければならない。それ以上かかるようなら、プラン自体を見直す必要があります」

とはいうものの、同センターでしか手掛けられないほどの重症疾患においてはイレギュラーなケースもある。つい最近、10時間を要した緊急手術があった。50代男性、胸腹部大動脈瘤II型、下行大動脈から総腸骨動脈に70mmほどの大動脈瘤があり、BMI33で110kg以上ある患者の再手術。1800例のキャリアがある大島氏をして「最大手術」と言わしめるほどだったが、何とか手術を終えて集中治療室に送ることができた。

「紹介元の医師に『手術してもいいけれど、足は動かなくなるし命の保証もできない』と言われたそうです。紹介状も簡素なものでした。それでも、当院にたどりついてくれてよかったという思いです」

※1「ドクターの肖像」2018年3月号掲載

難しいからこそのやりがい求め「晋」の名前で運命の出会い

高校生の時に、須磨久善氏が行った日本初の「バチスタ手術(※2)」を知ったことで医師を志した。

「自分が磨き上げた技術で患者さんを救えるのはやりがいがあると感じました。最も難しいことにチャレンジしたいという思いで心臓外科医を目指しました」

医学部5年生になり、初期研修先を選ぶための「師匠」探しを始めた。一日も早く一人前の心臓外科医として手術できるようになるためには、誰に師事するかが重要であると考えていたからだ。北から南までさまざまな病院を回ると、どの施設でも歓迎された。

そんな時、同級生が病院ランキング本を持ってきて「同じ名前の先生がいるから、ここに行きなよ」と言う。書いてあったのは「山本晋(しん)」、大島氏の名前「晋(すすむ)」と同じ漢字のその人が勤務する川崎幸病院は、当時全国8位の開心術数だった。

「名前が同じだからって関係ないでしょって、ずっと無視していました(笑)」

しかし友人は「縁があるにちがいないから」と引き下がらない。根負けした大島氏は、川崎幸病院に見学の予約を入れると、山本氏が執刀する下行大動脈人工血管置換術を見ることができた。――圧巻だった。大きな術野で迷うことなく手が動き、素人目にも無駄のない正確な手技であることが分かった。大島氏が探し求めていた師匠そのものだった。喜び勇んで「山本先生の下で学びたい」と言うと、山本氏は「ここはきついよ」と一言。

「家に帰る時間も寝る暇もなく、一人前の手術ができるようになるまで修業し続ける。そうして命を救うのがわれわれの仕事だ」

その言葉は、大島氏にとってはデジャヴだった。記憶の中にあったのは、「倒れるなら、前のめりに倒れろ」という父の言葉。父は起業して働き詰めで、ほとんど家に帰らなかった。死ぬその時まで前向きにやり切れと言う人で、山本氏は父と全く同じことを言っていると感じた。

「甘い言葉で誘う人より、この先生について行きたいと思いました」

山本氏に川崎幸病院で初期研修をさせてほしいと言うと、「まずは医師の基礎を固めるために沖縄の中頭(なかがみ)病院に行きなさい」と言われた。そこは、山本氏が心臓血管外科の立ち上げを手伝った病院だった。大島氏は沖縄で2年間研修し、2011年3月に川崎幸病院に着任。「師匠」の下での修業がスタートした。

※2 拡張型心筋症の患者に対し、拡大した左心室の一部を切断して縮小する手術

ノート作りで手技を完全コピー 予定より10年早く目標達成

大島氏によると、目標とする人に追いつくための一番の近道は「真似ること」。山本氏の一挙手一投足を観察し、手術帽のかぶり方からシャツの入れ方まで真似た。もう一つ徹底したのは「手術ノート」の作成。山本氏は、自身もそうしたように、研修医たちにも手術の手順を詳細に記した手術ノートを取るように指導していた。大島氏は、手術記録を欠かさなかっただけでなく、もう一冊独自のノートをつけていた。真似るだけでは、追いつけたとしても追い越せない。自分なりの考え、反省点、改善案などを別のノートに書いて繰り返し見るようにしていた。

「手術は手先でするものじゃない、頭でするものだ」という山本氏の言葉は、個別の経験(暗黙知)を言語(形式知)に変換する必要性を示している。手術の詳細を正しく言語化することで初めて正確な手技を理解し、身に付けることができるのだ。

「『大動脈の表面を剥離する』という認識ではダメ。上行大動脈の外側の脂肪には脂肪組織とリンパ組織があり、その外側に心膜の組織がある。剥離するのは脂肪組織とリンパ組織の間なのか、脂肪と心膜の間なのか、それを言語化する厳密さが必要です」

大島氏が川崎幸病院に来た当時は4人の上級医がおり、山本氏からは「4人抜かないと、手術はできないよ」と言われていた。

「生意気な話ですけど、助手の時から先生方の手術を批判的に見るようにしていました。自分だったらここはこうするな、と。さらに、手術の流れをシミュレーションして、先生方の次の動きを予測する練習をしていました」

上級医が執刀した胸腹部大動脈の剥離が40分。一方、山本氏が行うと17分だった。

「動作と動作の間がものすごく短いんです。同じ手術でもこれほど違うのかと、自分の中にあった手術時間の感覚がガラリと変わりました」

極限まで真似ることと、自分なりの視点を持つこと。この両輪をフル回転させることで、大島氏の心臓外科医としての成長は加速度を増した。すると、ほどなくして上級医が1人去り、2人去り、大島氏は三番手になった。そして、二番手の医師が大学院に行くことが決まった。

「山本先生から『君が手術できるようにならないとだめだぞ』と言われ、さらにギアが上がったように思います」

医師3年目のある日、上級医から手洗い中に突然「開胸できる?」と聞かれた。求められる「できる」のレベルは完全コピー。完璧な手順で進めなければ、次のチャンスはなくなる。大島氏は、常に準備をしていたため、迷わず「できます」と答えた。

その後、手術の執刀も任され、大動脈手術の最難関といわれる胸腹部大動脈人工血管置換術を執刀したのは31歳。大島氏は当初、40歳までに執刀するという目標を立てていたが、約10年早く達成したことになる。「チャンスの神様」は、来たと思ったら一瞬で通り過ぎてしまうといわれるが、どうやら大島氏は自ら迎えに行ったようだ。

「患者が死ぬか、自分が死ぬか」強い覚悟で年2000件目指す

2020年には、山本氏の後継者として川崎大動脈センター長に就任。一日に複数件の手術を行うための工夫も生み出している。

「術前に何度も細かくCTを確認し、手術のシミュレーションをする時に『ヤマ場』を決める。そこに向けて集中力を高め、ヤマ場を越えたら少しだけ集中を緩めます。緩急をつけて、大変な手術でも次に備えて疲れないようにしています」

初めて執刀してから10年が経ち、日本で最も多くの大動脈手術を行う医師になった今でも忘れられない手術がある。医師4年目の頃に担当した腹部大動脈瘤の患者で、アテローム性動脈硬化症があり、手術を終えると両足に麻痺が残った。患者は70歳の男性、仕事を引退したばかりで夫婦二人での旅行を楽しみにしていた矢先のことだった。術後も手を尽くしたが、患者は帰らぬ人となった。妻は気丈で、大島氏に感謝の言葉を述べてくれた。そのおかげで、悔しい思いがありながらも、できることは全てやったという気持ちになれたという。

しばらくして、その妻から封書が届いた。便箋には社交辞令も挨拶もなく、震える文字でたった一言「診断書をお願いします」とあった。

「それを見て、やっぱり命を救わないと意味がないんだと気付きました。優しい医者だとか精一杯やったなんて何の価値もない。手技を極めて命を救わなければ心臓外科医の資格はないと、改めて肝に銘じました」

手術において、イレギュラーな事態は度々起こる。手術が終えられないかもしれないと不安がよぎることもある。そんな時に頭の中を巡る言葉は「患者さんが死ぬか、自分が死ぬまでやるか」。この究極の問いが、大島氏を奮い立たせている。

ある時、フィリピンから自費で来院した患者がいた。上行弓部から下行大動脈に解離性動脈瘤があった。術前検査のCT撮影をした直後に心肺停止に陥り、心臓マッサージをすると心拍は戻ったが、その数分後に再び心停止。CT室で気管挿管を行い、蘇生処置を続けた。同時に各方面に連絡し、手術室の準備を進めた。奇跡的に再度心臓が動き出したので集中治療室へ運び、手術室の準備を待った。その後、左開胸下弓部大動脈人工血管置換術は無事に終了し、翌日には患者の意識が戻り2週間後に退院していった。この術式を緊急で行える施設は世界でもここだけであろう。諦めなければ何とかなる。それを、患者に教えてもらった手術だった。

大島氏の目下の目標は、同センターでの大動脈手術を年間2000件にすること。論文でもガイドラインでも、ハイボリュームセンターに手術を集約することで治療成績が向上することが示されている。

「当センターに症例を集約し、標準化した手術を行うことで、患者さんを救うことと医師への教育が両立できるはず。より良い手術が次の世代の医師に伝わることで、治療成績がさらに良くなるという好循環が生み出せると思います」

必要なのは、確実に患者を救う一流の心臓外科医。その人には、根治を目指す折れない心と内なる闘志が備わっている。命を守ることの重さを知っている医師は、どこまでも自分に厳しく他人にも厳しい。

P R O F I L E
プロフィール写真

社会医療法人財団 石心会 川崎幸病院 川崎大動脈センター センター長/大動脈外科 部長
大島 晋/おおしま・すすむ

2009 産業医科大学 卒業、沖縄・中頭病院 初期研修
2011 川崎幸病院 心臓血管外科
2020 川崎大動脈センター センター長、大動脈外科 部長

専門・主な得意領域

心臓血管外科
大動脈瘤、大動脈解離、胸腹部大動脈瘤、弓部大動脈瘤、下行大動脈瘤

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2025年7月号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。

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