手術で失われる患者の“声”「何とかできないか」
声をとるか、命をとるかーー。喉頭がんや咽頭がんの手術では、がんを取り切るために声帯を摘出しなければならない。耳鼻咽喉科でこれまで1000例以上の頭頸部がんの手術を執刀してきた西尾直樹氏は、がんを治すために患者が厳しい選択を迫られる場面を何度も目にしてきた。
「命を救うためには仕方がないとはいえ、患者さんにとって声を失うことの影響は大きい。それを目の前で幾度となく見てきたからこそ、何とかできないだろうかとずっと考えていました」
声帯を摘出した患者が話すための手段には、食道発声、シャント発声、電気式人工喉頭による発声の3つの方法がある。しかし、いずれも手術前の自分の声とは全く違うものだ。一番浸透しているのは声帯の代わりに喉を震わせる電気式人工喉頭で、特別な手術や発声法の習得が必要ないのが利点だが、抑揚がない機械音が出るため外出先では使いづらい欠点がある。「ロボットみたいな話し声がする」と周囲から言われることもあり、外出が嫌になり引きこもってしまう患者もいる。
患者が自分の声を失わずにいられる方法はないか。西尾氏がそのヒントを見つけたのはコロナ禍だった。リモート用のデバイス開発が進み、音声を変換させるアプリケーションが次々と出てきたのである。
「手術前に患者さんの声を録音しておけば、その技術を使って術後に自分の声で話せるかもしれない」
ひらめきからの行動は早かった。音声変換に詳しい専門家を探すと、偶然、同じ名古屋大学の情報基盤センターに音声変換を研究する戸田智基氏がいることが分かった。面識はなかったが、すぐに「共同研究をしたい」とメールを送った。
そして2022年に「音声再生プロジェクト」がスタート。名古屋大学発のベンチャーとタッグを組み、音声変換アプリケーションの開発に取り組む。プロジェクトには、声を失った患者のケアのために同大学の精神科医や脳神経内科医が加わり、愛知医科大学と愛媛大学の耳鼻咽喉科医も参加している。西尾氏の"巻き込み力"によって、診療科や大学の垣根を越えた一つのチームが出来上がったのだ。
ーー開発から3年。ついにリアルタイムで音声変換ができるアプリのプロトタイプ版が完成した。仕組みはこうだ。
まず手術前に500ほどの例文を読み、声を録音する。そして術後に電気式人工喉頭で同じ例文を読んだ声を録音。AIで術前・術後の声を合成し、変換したものをアプリから流す。AIの機械学習の機能で、その人の話し方やイントネーションまで再現することができる。変換した声が発せられる前に、電気式人工喉頭の電子音がそのまま相手に聞こえてしまうなど、まだ改良は必要だが、プロジェクトに参加した60代の男性患者は、
「一度は諦めていたけれど、また自分の声で話せるのが嬉しい。これで孫に話しかけられる」
と表情をほころばせた。声はその人の人生そのもの。西尾氏はその声を守るために、アプリの実用化を目指した研究をさらに加速させようとしている。