病名の診断や薬の処方より患者の未来にこだわる
小学生で中国の古典『四書五経』を原書で読んでいた大和少年は、歴史の教師になることを夢見て東京大学教育学部に進んだ。しかし、高校での教育実習時に不登校の生徒にアプローチしようとすると「高校は義務教育じゃないから不登校の生徒は見なくていい」と教師に言われ、すぐさま進路の変更を考えた。
「そういった子のケアこそが私のやりたいことなのだと気付きました」
大学を卒業後、一般企業で2年間働いて貯金をし、新潟大学医学部に入学。初期研修2年目の時に東日本大震災が起こった。放射能を避けて西に移住する人がいる中、大和氏はあえて北に向かった。
「東北で支援活動をしたかった。そして何よりも被災した子どもたちを助けたかったのです」
後期研修施設として選んだのは、山形県にある公徳会佐藤病院。当時、同院には、「精神科救急病棟※」の立ち上げを主導した計見(けんみ)一雄氏と、児童精神科医の草分け的存在である齊藤卓弥氏が勤務していた。
児童精神科の診療範囲は一般的には15歳まで。ゆえに、平均発症年齢が20歳前後である統合失調症や双極性障害を診られない児童精神科医が少なくないという。「年齢で区切らず患者さんを診たい」と考えていた大和氏は、児童精神科と成人の精神科の両方を一気に学ぶべく、計見氏と齊藤氏に師事した。
「計見先生は『精神科医の最も大切な仕事は、診断をつけることでも薬を出すことでもなく、ケースワークだ』という方針でした。『入院したその日から、患者さんをいかに早く社会に復帰させるかを考えなさい』とおっしゃっていました」
大和氏は計見氏の教えの通り、治療の傍ら診断書の作成から福祉手帳の申請手続き、行政とのやりとりなど一連のケースワークを一人でこなす力を身に付けた。と同時に、計見氏に張り付くようにして成人の精神科診療を学んだ。
一方、週に一度同院で児童精神科外来を行っていた齊藤氏にはマンツーマン指導を申し込み、毎週付きっきりで外来診療を学んだ。
「齊藤先生は、まずは典型的な症例を網羅することが大事だとおっしゃっていました。そうすれば、非典型例や難しい症例も鑑別できるようになる。児童精神科の先駆者である齊藤先生から直接学べた時間は大変ぜいたくでした」
大和氏は精神科医療のパイオニアである2人の名医に師事したことで、スーパー救急の理念に触れ、子どもから大人まで幅広い年齢層の患者に対応し、精神科医としての基盤をつくることができた。
「佐藤病院には慶應義塾大学の先生も来られていて、その先生からは研究について指導していただきました。児童精神科にはいくつかの流派がありますが、それぞれの『いいとこ取り』で学べたことは本当に恵まれていました」
埼玉県済生会鴻巣病院に移って依存症患者の治療に取り組んだ後、児童精神科の入院病床がある2施設に勤務する。一つは女子児童専用病棟のある横浜カメリアホスピタル、もう一つは、男女混合病棟で院内学級も併設されている東横惠愛病院。ここでも異なる領域を並行して学ぶことで、深く幅広い診療スキルを身に付けることができた。
どんな患者が来ても動じない胆力がついた頃、大和氏が医師人生で最も度肝を抜かれた出来事があった。
小学3年生の女子児童の入院受け入れ時のこと。女性看護師が身体チェックをしたところ、ポケットに刃物が入っていた。大和氏が保護室で対面すると、女子児童が言った。
「先生、口の中にも入ってるよ」
見ると、口の中にカッターの刃が隠されていた。その児童が傷つけたいのは、他人ではなく自分自身。平然と「これ、飲み込むから」と言った。看護師が体を押さえているうちに、大和氏が鉗子で刃を取り除き、その場を切り抜けた。
「何とか顔色を変えずに対応しましたが、医師人生で一番心臓がバクバクしました」
児童精神科医にとって大切な資質について、大和氏はこう語る。
「どんな時も冷静さを失わず、竹のようなしなやかなメンタルを持つことです。あとは、どんな患者さんも拒絶しないこと。私は必ず『来てくれてありがとう』から始めます」
※ 急性期の重度精神疾患患者に高度医療を提供し、3カ月以内の退院を目指す専門病棟。