坂口 志文
純粋なる科学の冒険に踏み出せ!免疫のプリンシプルを覆した男(2)

大阪大学 特別教授 免疫学/分子生物学

『ドクターズマガジン』2019年11月号 ドクターの肖像

公開日:2025/10/09

2025年ノーベル生理学・医学賞を受賞された大阪大学特任教授の坂口志文先生に、心よりお祝い申し上げます。
坂口先生は、免疫の働きを調整する「制御性T細胞」の発見により、医学の進歩に大きく貢献されました。

メディカル・プリンシプル社発行の『ドクターズマガジン』2019年11月号「ドクターの肖像」にて、坂口先生をご紹介させていただきました。その記事を公開いたしますので、ぜひお読みください。

目次

米国での資金調達に苦労 財団の奨学金に救われる

「私がマウスを解剖して血液を採ったら、家内が別の実験をする。彼女は動物を殺せないので」

米国の研究施設での研究パートナーは教子夫人。彼女は医学生時代に坂口氏が勤める愛知がんセンター研究所で実験を学んでいた。その時から坂口氏の共同作業員である。助手を雇う余裕はなく、アニマル・テクニシャンの費用も惜しい。2人で1000匹にも増えたマウスのケージを作り、掃除をし、餌をやり、実験をした。時には実験に使う抗体も隣の研究室から融通してもらった。年に1本発表する論文が坂口夫妻の収穫であった。

「役割分担できるほど、人がおりませんでしたから」

飄々(ひょうひょう)と回顧するが、まさに「父ちゃん母ちゃん農業」のようであった。科学者の日常は過酷な労働者なのである。資金調達にも苦労した。いくつグラントに応募しても、研究が主流でないために却下。ところがジョンズ・ホプキンス大学で研究していた時、IgE抗体を発見した石坂公成氏を訪ね、応募書類の書き方を伝授してもらうと、まもなく運を引き寄せた。

「ルシル・P・マーキー・トラスト奨学金が私の研究を8年間もサポートしてくれました」

坂口氏の研究テーマを「捨て石」となっても拾おうとした審査員がいたのだ。1985年に書いた論文(※1)にある注釈が、当時、坂口氏が資金繰りに苦労していた境遇を物語る。

“日本の文部科学省と米国NIHの助成を受けた坂口博士は、この成果を1983年に京都で開催された国際免疫学会で発表した。目下の住所はメリーランド州ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生学部である”

文科省とNIHから研究費を得て、発表は京都、現在はボルチモアにいるという「複雑さ」である。坂口氏は、資金調達のため狩猟民のごとく2、3年ごとに所属を一流大学や研究所へと移していった。

「大学も研究所も私の扱いには困ったと思いますよ。完全に独立しとらんけれど、自分のやりたいことと、お金を持っとるわけですから」

先回りすると、約10年間の米国留学を切り上げた帰国後も資金繰りに苦労し、「無所属かつ無収入」の時期もあった。

「科学研究費というものがありますけれど……」と坂口氏が言葉を濁す先を読むと、捨て石を選ばず、無難なテーマにわずかな年数の助成しかしない日本の科学行政への批判が浮かぶ。非主流のために、辛辣(しんらつ)な批判さえ浴びた自らの体験からの直言である。

※1 Organ-specific Autoimmune Diseases induced in Mice by Elimination of T Cell Subset : The Journal of Experimental Medicine, 161 : 72-87, 1985

「そんな考えはばかげている」逆境でも研究の信念は変わらず

渡航費用を惜しんで、学会に参加しないこともしばしば。そのため「論文は出るが、本人現れず」と幽霊扱いをされた。研究が認められるようになると、講演で英国に招聘(しょうへい)された。免疫学の大御所が坂口氏の紹介スピーチをする際、目が悪いため、坂口氏が壇上でそのプレゼン操作を手伝った。

「大御所が『ではDr.Sakaguchiを紹介します』と言うと、さっきまでコンピューターをいじっていた男が話し出したので、会場がどよめきました」

幽霊ついに語りき――

だが、坂口氏が熱いスピーチをした後には、質疑応答で罵倒された。

――そんな考え方はばかげている。

――まだそんな研究をしているのか。

罵倒の理由は1980年代半ば、研究者の間でサプレッサーT細胞が存在する可能性は消えていたからだ。先述したCD8マーカーは別のT細胞(キラーT細胞)の分子であることが分かり、多田氏らが予想した別の分子の存在も否定された。「免疫の働きを抑制する細胞などというものは存在しない」という鉄ついを下され、世界の研究者の熱が一気に冷めた。

「当時はまだ、細胞表面分子の正体を突き止めるための最先端技術、モノクローナル抗体技術が普及していなかったせいもあります」

最先端技術を用いることで制御性T細胞での分子追跡は別の展開さえあったのではないかと考えられた。だが世界は坂口氏の研究をサプレッサーT細胞と「同じもの」扱いにし、時代遅れだと決めつけた。

坂口氏に、当時は認められずに暗黒時代だったのか、と尋ねると――「そんなことはない。認められないからと、腐っておったわけじゃない」ときっぱりと言い放った。「30代で認められたいなんて考えませんでしょう」と切り返してきた。坂口氏は逆風すさぶ境遇の時でさえ、どこか楽しんでいたのだ。

めげずに論文発表を継続していると、少しずつ味方が増えてきた。ある年、ポルトガルの片田舎の僧院に20人ほどの免疫研究者たちが集まった。全員、免疫反応の抑制や免疫寛容を研究していた。

「マイナー研究者同士の会合でね」

音頭取りをしたパスツール研究所の免疫学者は、坂口氏の業績を褒め称えた。リスボンに留学していた堀昌平氏(現東京大学教授)もこの研究会に居て、免疫で自己の在り方を追究していた。後年、堀氏は坂口氏と共にTregを生み出す遺伝子研究で成果を上げる。

そんな坂口氏の主張を認めて流れを変えたのは、「自己の中の敵」とも言える存在であった。

懐疑的だった世界の評価 権威の豹変で世論が変わる

――いまだにうさんくさいことを言う研究者がいるから、本当かどうか確かめてほしい。

NIHの研究者で「米国免疫学会誌」の編集長を務めるEthan Shevach氏は、スウェーデンから来ていたポスドクの女性研究者Elizabeth Suri-Payer氏に追試を命じた。坂口氏が1991年に「笑みがこみ上げてきた」成果を発表した、1995年の論文(※2)のことである。そこにはCD4分子とCD25分子をマーカーに持つT細胞の存在と、その意義が描かれていた。

この論文は「米国免疫学会誌」での発表にこぎつけるまでに「Nature」誌や「Journal of Experimental Medicine」誌でリジェクトされていた。当時は一流誌にも制御性T細胞へのアレルギーがあったのだ。その拒否反応の急先鋒がShevach氏で、彼がNoと言えば世界はNo、Yesと言えばYesだった。

「ところがそのポスドクが追試をして、『本当です』とShevach氏に報告したのです」

実は、Shevach氏にはこれ以前に坂口氏と接点があった。

「サイクロスポリンAという免疫抑制剤は臓器移植を受けた患者の拒絶反応を抑える効果が高かった。ところがサイクロスポリンAの投与を中断すると、自己免疫病が起きたんです」

侵入者を攻撃する細胞をなだめる薬が、自己攻撃をして炎症を起こす――かつてマウスで見た光景にそっくりだった。このメカニズムを探ると「暴走する免疫細胞を止めるT細胞を増減させる仕組み」が分かった。これを論文にすると、まず注目したのがShevach氏だった。彼の研究テーマの一つもサイクロスポリンAだったからだ。この論文を読んでいたShevach氏は、坂口氏の95年の論文を無視できなかった。そして「本当だ」という追試の結果が出てきたのだ。

「Shevach氏は態度を豹変して、直ちに私のT細胞を信じました」

Shevach氏は豹変どころか、ヘブライ語の「maven(新たな理解者)」という言葉を掲げて、それまでの考えを180度転向する旨を表明した。自己(免疫学の世界)の中の敵(拒絶反応)が味方になって、世界からの坂口氏の評価は一変した。

余談だが、追試をしたSuri-Payer氏も坂口氏のT細胞のとりこになった。

「米国の別のラボに移って私のT細胞を研究し、スウェーデンに帰国後も研究を続け、彼女の指導学生が日本にいる私のところにポスドクで来ました」

そのポスドクはスウェーデンに帰って自分の研究室を持った。そこでの指導学生も坂口氏に師事したという。Shevach氏から数えて実に4世代にわたる信奉者をつくった坂口氏のT細胞は、世界中で一気に信奉者を増やし始めた。すると「Cell」誌がその細胞に「正式な名前をつけてくれ」と依頼してきた。

※2 Immunologic Self-Tolerance Maintained by Activated T Cells Expressing IL-2 Receptor a-Chains(CD25): The Journal of Immunology, 155 : 1151-1164, 1995

Tregと命名した細胞は免疫学の新しい事実となる

Regulatory T Cell(制御性T細胞)――2000年に坂口氏が「Cell」誌に書いたレビューで命名した名である(※3)。なぜその名をつけたのか。

「多田氏のSuppressor T Cellsが脳裏をよぎったのは事実です」

どうやら“制御”という語には思い入れがありそうだ。

Tregと命名した前後から坂口夫妻の旅に追い風が吹いてきた。科学技術振興事業団の研究助成“さきがけ21”にパスし、米国から日本へ戻って研究することができるようになった。

「審査員の中に私の研究を追試しとった人がいてね」

日本にも坂口氏のTregを信じるものが増えていたのだ。東京都老人総合研究所を経て、京都大学に教授として迎えられた。Tregの存在証明の次は、医療にどのように応用できるかである。

かつてIgE抗体を発見した石坂公成氏は、「動物実験で分かった仕組みがヒトのアレルギーにも当てはまることを証明するのがわが使命」と語った。坂口氏もそれに倣った。

「ネズミでは分かった、ではヒトではどうなのか」

それまでにTregの抑制や活性は試験管内で実現していた。さらに教子夫人の、自己免疫病の関節リウマチを遺伝的に起こす「SKGマウス」の開発が進んでおり、病気のメカニズムの解明と、Tregの治療への応用が重なりつつあった。だが一つ問題があった。マウスと同様のことをヒトで証明しなければならないのだ。まさか生後3日目のヒトから胸腺を切除することはできない……。

「ところが証明できる病気がありました」

1980年代に記載された遺伝性の病気「IPEX症候群」だ。生後3年以内に炎症性腸疾患や重篤な自己免疫炎症を起こす難病の原因は、Foxp3遺伝子の異常だという研究が2000年に発表された。そこで堀氏らと共に、この遺伝子が変異するとTregが生まれず、暴走する免疫が制御されないために炎症が起きていたことを2003年に突き止めた。

「Foxp3こそがTregを生み出すマスター遺伝子でした」

Tregの発生がヒトの分子レベルで解明された。Tregの作り方や増減方法が分かったことで、信奉者も批判者も中立者も一気に消えた。なぜならTregは誰もが参照すべき免疫学の新しい事実となったからだ。

「頭の中のしかるべきところに落ちて、それを使ってものを考えられるようになるまでには、結構時間がかかるものです」

坂口氏は2011年大阪大学に拠点を移し、2016年に制御性T細胞医薬品の開発を行うレグセル株式会社を設立。外部からファンドも集めている。自己免疫病やアレルギーの免疫的抑制は実用化されつつあり、がんの進行や予後にもTregが関与していることが分かってきた。これからのがん治療も一変するだろう。

坂口氏はなぜここまで来られたのか? 静かに笑みをたたえる彼と「免疫問答」をした。

※3 Regulatory T Cells : Key Controllers of Immunologic Self-Tolerance : Cell, 101 : 455‒458, 2000

文/郷好 文 撮影/松村 琢磨

今の働き方を変えたい。
でも何から始めたらいい?

「転職する」と決めていなくても
民間医局にお気軽にご相談ください

医師転職のプロが求人紹介からスケジュール調整、条件交渉まで
後悔のない転職活動をサポートします

エージェントに相談する(無料)