子どもたちの“生きる喜び”を未来へつなぐ小児集中治療医 黒澤 寛史

医師のキャリアコラム[Challenger]

黒澤 寛史(兵庫県立こども病院 診療部長 小児集中治療センター長)

聞き手/ドクターズマガジン編集部 文/安藤梢 撮影/太田未来子

近畿地方における小児集中治療の拠点となる兵庫県立こども病院。その立ち上げに尽力し、集中治療科を率いてきたのが黒澤寛史氏である。PICU・HCU合わせて年間約1000人の患者を受け入れ、国内の小児集中治療センターの中でも最大規模を誇る。

日本で初めてPICUを開設した国立成育医療研究センターで学び、成人救急で多くの症例を経験しながら救命医療のトレーニングを積んだ。世界トップレベルの小児集中治療を学ぶために、アメリカとオーストラリアの小児病院に留学もしている。「まだ足りない、もっと学びたい」とさらなる高みを目指して研鑽を続けてきたのは、人生のほとんどを知らずに亡くなる子どもを救いたい一心からだ。

小児科と集中治療科、両方の技術が求められる小児集中治療医は、全国にわずか230人にとどまり、小児科全体の1%に過ぎない。過酷な場面に立ち会うことも多く、「子どもが好きだからこそ自分には務まらない」という医師もいる中で、黒澤氏はどう患者と向き合ってきたのか。挑戦の日々を追った。

“正解”のない集中治療に「これでいいのだろうか」

「あまり格好いいエピソードはないんです」

なぜ医師を志したのかを聞くと、黒澤氏は笑ってそう答える。福島県いわき市で生まれ育ち、県内トップクラスの進学校に入学。成績が良かった青年は、明確な目的がないまま医学部を目指した。将来どんな医師になるのか。答えが見つかったのは医学部6年生の時だ。病院実習で診療科を回り、指導医たちに「なぜこの診療科を選んだのか」を質問すると、血液腫瘍を専門とする小児科医がこう答えた。

「せっかく生まれてきたのに、生きる喜びのほとんどを知らないまま死んでしまうのはかわいそうじゃないか」

その言葉が胸に響いた。子どもの命を助けるために、自分も医師として力を尽くしたい――。それに、と付け加える。

「僕は元々“怠け者”なんです。でも、子ども相手だったらどんな時も一生懸命に頑張れるかなって」

ぼんやりとしていた将来に明かりが灯った瞬間だった。

卒業後は小児科医を目指して仙台市立病院に赴任。地域の基幹病院のため小児の重症患者が多く運ばれてくる。しかし、小児集中治療の専門的なトレーニングを受けた医師は一人もいなかった。ここだけではなく、当時は日本中どこの病院でも同じような状況だった。

「このやり方でいいのだろうか」

本当にベストを尽くせているのか、助けられるはずの命を助けられていないのではないか。“正解”が分からず、黒澤氏の心には疑問と焦りが生まれていた。

そんな時、日本で初めての小児集中治療室(PICU)が、国立成育医療研究センターにできることを知った。

「自分がやりたかったことはこれだ、と直感しました」

小児科医になってまだ3年目だった黒澤氏を引き入れてくれたのは、同郷の先輩の中川聡氏(現・いわき市医療センター集中治療部 主任部長)である。アメリカで集中治療を学んだ経験から、同科の立ち上げメンバーになった人物だ。その出会いをきっかけに、黒澤氏は小児集中治療医として新たなスタートを切った。

成人救急で身に付けた圧倒的なスピード感

「小児科医療と小児集中治療は何から何まで違いました」

人工呼吸器の導入から心肺蘇生や気管挿管の方法、ショックへの対応……。初めて知ることばかりで、付いて行くのがやっと。それでも、今まで分からなかった小児集中治療の“正解”を知り、自分の中に体系化された知識が積み上がっていくことに大きな喜びがあった。こうして黒澤氏は小児集中治療医としての足掛かりを得たのである。

成育医療研究センターで小児集中治療を学んで2年。転機が訪れる。

「一度、小児科を離れて、成人救急を学ぼうと考えました」

成人に比べると小児の症例は圧倒的に少ない。成人救急でもっと多くの症例を経験し、考えるよりも先に体が勝手に動くようにしたい。今でこそ小児科医が成人救急を学ぶこともあるが、当時はほとんどいなかった。迷いはなかったのだろうか。

「もちろんありました。でも、自分にスキルがないせいで目の前の子どもを死なせたくない。その思いのほうが強かったんです」

先輩の中川氏からは「君がやりたいことをやったらいい」と背中を押された。小児集中治療から成人救急へ。また新たな挑戦が始まった。

神戸市立医療センター中央市民病院の救命救急センターでは、次々と搬送されてくる救急患者にスタッフたちが休む間もなく対応する。そんな救急医療の現場に、黒澤氏は「最初は怖かった」と当時を振り返る。

圧倒されたのはスピード感だ。多くの症例を経験することで医師個人のスキルが高められているのはもちろん、院内システムや人員のかけ方も小児とは違っていた。患者数が少ない小児医療で同じ体制を実現するのは難しいが、それでも成人医療のスピードを体感できたことは、その後、PICUの診療でも大いに役立っている。

多くの成人症例を診るうちに、初めに感じた怖さは徐々に薄れていった。だが、「今も完全には消えていない」と言う。どれだけ経験を積んでも、患者の命に向き合う怖さがなくなるわけではないからだ。それでも成人救急を学んだ3年間で、搬送されてきた患者を診て、自然と体が動くまでになった。

「これで小児集中治療に戻れる」

子どもの命を救いたいという思いは、揺らぐことはなかった。

つらい場面で問われる家族との向き合い方

2007年からは静岡県立こども病院でPICUの立ち上げに加わった。トップにいたのは植田育也氏(※1)(現・埼玉県立小児医療センター小児救命救急センター長)。日本にPICUを普及させた先駆者である。植田氏からは「若手のリーダーとして頑張ってくれ」と期待され、開設から2年経つ頃には、日ごとの現場責任者を任せられるまでになった。

小児患者の看取りに主体的に関わるようになったのも、この頃からだ。小児集中治療医である限り、子どもの死は避けて通れない。

ある日、一般病棟に入院していた子どもの病状が悪化した。1歳未満の患者で、先天性の腎臓疾患があった。専門科で治療を続けたが予後が悪く、全身管理が必要になりPICUに入った。人工呼吸器を付けて何とか持ちこたえていたが、このまま治療を続けても回復できる見込みはなかった。黒澤氏は専門科の医師と共に両親を呼び、今どんな状態なのか、これからどんな経過をたどるのかを話した。聞き終えた両親は静かにこう言った。

「もう嫌がることはしないであげたい」

人工呼吸器を付けようとすると、その子は嫌がるしぐさを見せていたのだ。話し合いが終わり、他の医師たちが部屋を出ていくと、黒澤氏はそっと両親のそばに歩み寄った。親が子どもの命を縮めるかもしれない選択をしなければならないのは、どんなにつらかっただろう。どうしても一言伝えたかった。

「私はお二人の決断を尊重します」

その言葉を両親がどう受け止めたのか。それが分かったのは、患者が亡くなった後だった。「先生の一言が私たちの心を楽にしてくれた」と二人が話していたことを、看護師が教えてくれた。医師の一言が、苦渋の決断をしなければならない家族の心を救うこともある。その重みを実感した出来事だった。

医師として、患者や家族に「踏み込みすぎないように一線を引いている」と本人は言うが、過酷な小児集中治療の世界では、そうしなければ自分の身が持たないと分かっているからだ。それでも患者が亡くなった時や、重度の後遺症がある患者が退院していく時、そこには目を潤ませる黒澤氏の姿がある。一線を引きながらも、常に患者と家族を思い、心を寄せ続けているのだ。

※1 「ドクターの肖像」2021年10月号掲載

臨床留学で磨かれた先を読み、対処する力

若手のリーダーとしてPICUで力を発揮するようになってからも、黒澤氏は自分に満足することはなかった。

「まだ何かが足りない気がしたんです……」

次のステップに考えたのが海外留学だ。世界トップレベルの小児集中治療をこの目で見て、体験したい。2013年からオーストラリアのメルボルン王立小児病院に臨床留学すると、診療体制に日本との大きな違いを感じた。メルボルンでは30床ある病床を2チームに分け、医師2、3人で15人の患者を担当する。少ない医師で病棟を管理できるのは、看護師がPICUの専従で専門性が高く、1対1の看護を実践しているからだ。黒澤氏はここで“先を読む力”が鍛えられた。

「人工呼吸器の設定を変えたら、1時間後には血液ガスのデータを取ってほしいと伝えておきます。さらに『もしこの数値だったら次はこう動いて』と先の先まで読んで指示を出す。あらゆるパターンを想定し、対処できるようにする必要がありました」

先読みするのは、その日に自分が担当する15人の患者全員に対してである。

「驚いたのは、PICUの医師たちが他の医師による聴診所見に疑問を持たずに信じていたこと。日本では、『必ず自分で確かめろ』と教育されますから」

聴診の精度にこだわるよりも、時間を短縮して全ての患者に目を配る。患者の予後への影響を考慮した上で、徹底的な効率化が図られていたのだ。世界標準の小児集中治療を経験し、自分のスキルにも自信がついた。医師になってからずっと持ち続けていた「まだ足りない」という焦燥感がなくなった頃、兵庫県立こども病院からPICUを立ち上げてほしいと声が掛かった。

日本中どこの地域でも重症小児を救えるように

黒澤氏が目指したのは、兵庫で世界標準のPICUを作り上げること。そのためにこだわったのが病棟体制だ。小児集中治療室(PICU)、心臓疾患集中治療室(CICU)、PICUと一般病棟の中間に位置する高度治療室(HCU)の3つのユニット計27床を、各診療科医師と連携しながら全て集中治療科の医師が診るというものだ。

ただ、当初の病院の方針は違っていた。CICUとPICUが完全に分かれていて、集中治療科はPICUだけを診る体制になっていたのだ。「子どもたちの利益を考えれば、機能を集約したほうがよい」と、黒澤氏は病棟の再編を提案した。

「3つのユニットを一貫して診ることで集中治療医のスキルが上がり、治療の精度も上がります。これは、若手医師たちのトレーニングの場としても意義があると考えました」

開設前に思い描いていた構想はすでに現実になっている。世界標準の小児集中治療を提供し、ドクタージェットを活用することで近畿地方にとどまらず西日本の拠点となった。研鑽の場としての役割も大きく、小児集中治療を志す若手が全国から集まってくる。開設から10年で医師数は11人から20人にまで増えた。

次なる目標も見えてきた。亡くなる患者や後遺症を減らすためにはどうすればよいか。黒澤氏は日本集中治療医学会の小児集中治療委員会の委員長として、議論を進めている。

「PICUの努力だけでは難しく、いかに適切なタイミングで搬送してもらうかが非常に重要です。そのために小児科や救急外来を担当する医師への教育や、PICUがない地域での圏域を越えた搬送体制の構築など、国をあげての仕組み作りができるよう働きかけています」

PICUのある病院に運ばれたことが幸運なのではなく、いつでも、全国どの地域にいても子どもが救える。それを当たり前にしていくことが、黒澤氏の次なる目標なのである。

小児集中治療医だから助けられる患者がいる

少子化により小児患者は減少傾向にある。小児の集中治療は本当に必要か、と問う声もある。しかし、小児集中治療の研鑽を積んだ医師にしか救えない患者がいるのもまた確かだ。

ある日、2歳の熱傷患者が救急搬送されてきた。前胸部にII度熱傷があり、人工呼吸器を付けてもなかなか呼吸が回復しない。他の医師たちがECMO導入に踏み切るしかないと思っていた時、黒澤氏が選んだのは別の方法だった。

「減張切開をしてみよう」

ECMOは感染症のリスクが高く、できれば避けたい。黒澤氏はこれまでの経験を根拠に、減張切開で患者を救う可能性を見い出していた。胸を縦に切ることで、熱傷により伸縮性を失った皮膚や軟部組織を広げるのだ。形成外科医に処置をしてもらうと、患者の胸が動くようになり正常な呼吸を取り戻せた。

一人でも多くの子どもに、“生きる喜び”を感じてほしいと選んだ小児集中治療医の道。どんなにつらい場面を経験しても、やめたいと思ったことは一度もない。なぜなら、目の前にはいつも、何とかして命を助けたいと思う子どもたちがいるからだ。

P R O F I L E
プロフィール写真

兵庫県立こども病院 診療部長 小児集中治療センター長
黒澤 寛史/くろさわ・ひろし

2000 東北大学 医学部 卒業、仙台市立病院 小児科
2002 国立成育医療研究センター 手術・集中治療部
2004 神戸市立医療センター 中央市民病院 救命救急センター
2007 静岡県立こども病院 小児集中治療センター
2011 フィラデルフィア小児病院
2013 メルボルン王立小児病院
2015 兵庫県立こども病院
2016 同院 小児集中治療科開設、現在に至る

資格

小児科指導医・専門医
集中治療指導医・専門医
救急科専門医
麻酔科標榜許可

※こちらの記事は、ドクターズマガジン2026年9月号から転載しています。
経歴等は取材当時のものです。

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